フランスvs.ブラジルはゲーム以上のゲーム
1958年、スウェーデンで開催されたW杯で優勝したのはブラジルだった。4−2−4という新しい戦術と、17歳のペレを擁する強力無比のチームだ。平均3.6ゴールが記録されたこの大会で、ブラジルは16ゴールをゲット。ペレは6得点でチームのリーディングスコアラーだった。しかし、フランスが奪ったゴールは実に23点! そのうち13ゴールをジュスト・フォンテーヌが挙げた。この記録はおそらく永遠に破られないだろう。
準決勝での対戦は前評判通りブラジルが勝利した。だが、フランスは開始わずか2分で実質的に10人だった。キャプテンのロベール・ジョンケがババと接触して負傷、その後も何とかピッチにとどまろうとしたが、全く役に立たないことを悟って34分にピッチから去っている。当時は負傷であっても選手交代は認められておらず、フランスはここから完全に10人となった。ガリンシャとその仲間たちに対抗するには11人でも難しい。それが10人では勝ち目はなかった。しかし、前半のスコアは2−1。後半にペレがハットトリックを演じて、最終スコアは5−2だった。ブラジルは初優勝へ向けてまい進し、ここから彼らの黄金時代が続く。対照的に、敗れたフランスは70年代半ばまで国際舞台から遠のいてしまう。
86年、W杯は58年から大きく変化していた。スウェーデン大会はモノクロのテレビ放送しかなかったが、カラーになり、選手たちは世界的なスターになっていた。84年のユーロ(欧州選手権)を卓越したパフォーマンスで制したフランスは、プラティニに率いられた優勝候補の1つと目されていた。このチームは82年W杯・スペイン大会にベスト4を経験している。メンバー変更はフェルナンデスのみ。82年W杯はMFがあまりに攻撃的すぎたのだが、フェルナンデスの加入で適切なバランスが保たれるようになっていた。一方、ブラジルは82年に披露した“黄金の中盤”(ジーコ、ソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾ)を維持できず、ファルカンとセレーゾに代わってジュニオール、アレモンがMFに入った。だが、弱点だったGKはカルロスが、FWにはカレカがいて、その点は強化されている。
試合は史上まれに見る名勝負となった。ボールはずっとピッチ内にとどまり、ファウルで止まることも少なかった。負傷でベンチスタートのジーコが後半に登場し、素晴らしいパスでPKを獲得。だが、ジーコはキャリアで最も重要だったかもしれないPKを失敗してしまう。試合は延長戦、PK戦までもつれた。ソクラテス、プラティニといった最も才能ある選手がPKを失敗する中、最後はフェルナンデスが決めてフランスは準決勝へ。そこではドイツに苦い敗戦を喫するのだが……。
ブラジルにとって悲劇はキックオフの数時間前に起こっていた。ロナウドが謎のけいれんを起こして病院に搬送されたのだ。決勝にはエジムンドがロナウドに代わって出場するはずだったのだが、直前になってロナウドの先発が決定された。フランスは3−0で完勝。後にエジムンドが語ったところでは、ナイキ社が契約解除を盾にロナウドの出場を求めたという。また、FIFA(国際サッカー連盟)が2014年W杯開催の約束とともに、フランスに勝たせたとも……。
06年、ブラジルはさらにロマンティックではなくなっていたが、やはりタレントはそろっていた。ロナウジーニョ、カカ、ロナウド、ロビーニョ。準々決勝までは難なく勝ち上がってきた。フランスはスペインとの一戦で下馬評を覆して勝ち上がる。復帰したベテラン3人の活躍が光っていた。テュラム、マケレレ、そして何よりもジダンの存在が大きかった。フランスはまたしても劣勢を予想されていたが、かつてと違うのはW杯優勝経験者が残っていたことだろう。
後に大会MVPに選出されるジダンは、この試合のキーマンだった。彼はブラジル人よりもブラジル人のようにプレーし、アンリに決勝ゴールとなる1点をもたらした。ともあれ、これでフランスは3度もブラジルをW杯で破ったことになり、それは他国には成し遂げられなかった快挙であった。ハンガリー、オランダ、イタリア、アルゼンチンはブラジルに2度勝っている。しかし、3度はフランスだけなのだ。
水曜日(9日)のゲームもフランスが勝利した(1−0)。だが、この結果は大して重要ではない。両チームとも、目標に向かってチームを作り始めたところだからだ。目標はもちろん2014年W杯である。もし、自国開催のW杯で、どの国と対戦したくないかをブラジルの選手に聞けば、おそらく何人かはフランスと答えることだろう。
<了>
- 前へ
- 1
- 次へ
1/1ページ