伝説のチーマーリーダーが戦極で見せた“魂の戦い”

後藤勝

戦極のリングに立った伝説のチーマー、田中雄士 【t.SAKUMA】

 昨年末12月30日、有明コロシアム。田中雄士は「戦極 Soul of Fight」第4試合のリングに立った。パンフレットを見ても田中の詳細なプロフィールは載っていない。ただ写真を見れば、上半身に広くタトゥーを彫ってあることだけは分かる。
 もちろん田中はプロライセンスを持つ歴としたキックボクサーだ。ただ同時に、渋谷や六本木に複数のネイルサロンとバーを経営する実業家でもある。
 そして過去をさかのぼれば、構成員300人──周辺を含めれば最大1000人にも達したと言われる伝説のチーム、KGB(キング・オブ・ギャング・ボーイズ)を束ねた2代目リーダーだった。

「強い、怖い、ハンパじゃない」チーマー時代

DREAM王者の高谷も所属していたKGBのリーダーを務めた田中 【後藤勝】

 「不良」が格闘技の舞台に立つケースが増えてきたとはいえ、プロの大きな大会に出場することは稀だ。周囲が田中を戦極のリングに上げたいと思わせる何かがあるのだろう。もし実力に加えて人としての魅力もあるとするなら、それを醸成した半生の一部には、当然元チーマーのリーダーだったという過去も含まれる。

 KGBにはTHE OUTSIDERに出場した内藤裕、第2代DREAMフェザー級王者の高谷裕之が属していた。誰彼構わず刺していたという内藤と田中は同じ日に別々の場所で事件を起こし、逮捕、収監された。新聞にも報道され、田中は高校を退学した。中学ではバスケットボール部の部長を務め、進学校の優等生だった彼にはもったいない事態とも言えたが、田中は退学と引き換えにリーダーの座を手に入れた。この一件で解散状態となったKGBを先輩諸氏から受け継いだのである。

 田中は活発な少年で、何にでも興味を示し、楽しいことには首を突っ込む性分だった。
ヤンキーが廃れつつあった90年代前半、実家が海に近くサーフィンを嗜(たしな)んでいた田中が、チーマー文化に惹かれたのは必然だったのかもしれない。
 渋谷、新宿、池袋、原宿を根城にするチーマーは時代の先端を行く不良だった。ファッション雑誌は彼らの後を追った。武力で街を制圧し、他のチームを潰し、あるいは共存していく「武闘派」ではあったが、暴力は手段であって目的ではなかった。

「田舎の不良とはまったく違う。チームで過ごす毎日はきらびやかで、とても楽しかった」と田中は言う。度々大きなクラブを借りきり、イベントを催し、数百万円単位の利益を上げた。
 「ビジネス」を効率的におこなう一方、強面を押し出してもいた。ベントレーやキャデラックなどのリムジンを乗り回し、あるいは電車の一車両を占領し、刃物、催涙ガス、高電圧に改造したスタンガンを携行して移動する彼らを、一般人のみならず同じ不良たちも恐れていた。これには考えがあった。
「武力だけが重要なのではありませんが、戦いについては徹底していました。一般人とは一線を画すために、強い、怖い、ハンパじゃないと思わせていました。変な話、そうしないと商売にならない(笑)。ある種の権力を持つことはスーパー高校生になるために必要なことだったんです」
 ブランディングの一種なのだという。KGBがやることだからとメディアが取り上げる、その価値創造を意識して行っていたのだ。

喧嘩でどんなに強くても格闘技のトップには勝てない

【t.SAKUMA】

 小学校から空手を学び、中学で黒帯を締めた田中が、喧嘩に弱かったはずがない。それでも彼はこう言うのである。「喧嘩の強さは意識していなかった」と。
「簡単に誰が強い、弱いというのは偽物。実際のところはやってみなければ分からないと思うんです。それに、どんなに強くても格闘技のトップには勝てない。それよりもいかにして同年代のなかで上に行き、いかに楽しく生きるかを考えていました。KGBが把握しているメンバーは300人、周辺部隊も含めれば1000人という大所帯です。そのなかに自分より強い人間は何人もいたはず。一番だとは思っていませんでした」

 ただ、「Dynamite!! 〜勇気のチカラ2010〜」の結果を受け、高谷裕之については「DREAMの世界チャンピオンですからね、高谷はまちがいなく強いんでしょうね」と明確に評価した。
「世界チャンピオンになったことは本当にうれしい。仲間として誇らしく思います」

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