伝説のチーマーリーダーが戦極で見せた“魂の戦い”
戦いへの餓え満たすべくプロの格闘家に
【t.SAKUMA】
チーマーとして、そのトップとして、示しがつく程度の強さが必要だとは思っていても、組織全体をいかに動かし、大きくしていくかというリーダーの仕事が、田中にとってはより重要なことだった。
その姿勢はチーマーを卒業し、大学を出てからも変わることはなかった。社会人となり、不動産会社の勤務を経て、独立して経営者となる過程でも、嗜みとして格闘技を続けていた。24歳のときにはキックボクシングを始め、プロライセンスを取得した。
「空手にはプロがない。キックボクシングならプロの舞台に立つことができ、顔面打撃ありのルールで戦える」
日頃たぎる野獣を制御してはいても、戦いへの餓えは隠しようもなかった。田中は新しいステージを必要としていた。しかし現実は彼にグローブをはめさせる時間を奪う。気がつけば、田中はいつしか格闘技から遠ざかっていた。
ビジネスに忙殺される日々を送っていても闘志はふつふつとたぎり、胸の奥底に眠っていた。30代に入るとその強さへの渇望はもはや抑えられなくなり、田中は品川のレンジャージムに通い始める。鍛錬を重ね、やがてプロとしての自信を得たとき、戦極への出場オファーが届いた。
「空手では負けたことがない。高谷も年末のDreamで決勝戦を戦う。こっちはタイトルマッチでもないのに負けられない」
仲間の声援を背に、ついに戦極のリングへ
初の大舞台でもアグレッシブなファイトで観客を沸かせた田中 【t.SAKUMA】
「喧嘩し、空手もしてきたなかで、しかしプロ格闘技者としては遅咲きになる。自分でも不思議だと思います。それでも、いままで生きてきたなかで、いまが一番強いはずです。間違いなく。10代より20代より。だから言い訳できないですね。昔のほうが強かったとは言えない(笑)」
課題だった首相撲を克服して臨んだ戦極の舞台だったが、当日のルールは原則首相撲禁止の「戦極キックボクシングルール」だった。田中も対戦相手の池上大将もこのルールに不慣れで普段の癖が出たものか、レフェリーから注意を受けていた。
階級はライト級61.23キロ。同じ体重だが、プロフィール上4センチ背の高い池上のほうがリーチが長く、有利に思える。リング上で実際に対峙したふたりを見比べると、スリムな池上はさらに大きく見えた。
「ぼくは、自分の身長にしては重い階級で出ているんです。しかし骨や腱が太くて体重が落ちない。絞っても61キロ台ですから、この階級で出るしかない。そうなると、パワーにものを言わせるしかないんです」
田中の出場を、喧嘩地下格闘技クランチの創立者、杉浦和男が喜んでくれた。杉浦をはじめとするクランチの人々、レンジャージムの仲間、友人らで構成された「TEAM TANAKA YUJI」がリングの脇で円陣を組む。そして2分3Rの、戦いの火蓋がきられた。
1R、田中は持ち前の威圧感を利して前に出、積極的に攻める。コーナーに追い詰めたあと池上に足を払われるが、これはノーダメージ。再びコーナーに追い詰め、ヒザ蹴りを入れる。続く2Rもミドルキックとローキックのコンビネーションを中心に攻めるが、今度は前方スライディングで足を払われた。はっきりと「ノーダウン」というアナウンスが入る。
攻めているのに、二回転ばされた。妙な雰囲気のまま、試合は最終ラウンドに突入した。
迎えた3R、田中はホールディングでイエローカードを受ける。そのあとに待ちかねた瞬間がやってきた。無意識に出た左ハイキックが池上の頭部を捉えたのだ。池上は一瞬意識がとんだかのように見えるほどによろめく。客席は大きくどよめいた。
しかし池上はロープにも助けられ、ダウンを免れる。田中はこのときのことを振り返ってこう言う。
「ハイキックが浅かった。すねか足の甲が当たっていれば良かったんですが、つま先のほうだった。もっと深く入っていれば。それが悔しい。きちんとしたミートポイントで力を伝えれば、テンカウントをとれるという確信がありました」
判定は29-29、30-29、29-29。ひとりが田中の優勢を支持したが、規定でふたり以上のジャッジが支持しないと勝利とはならない。ハイキックで相手を追い詰めた一撃をフラッシュダウン(10−9になる)と判定したジャッジがひとりいたのだろうか。もしあのハイキックがもっとリングの中央に近い場所で正確にヒットしていれば、決着は着いたのかもしれない。
田中の戦極デビュー戦は「1−0」のドローに終わった。それでも田中の闘志は衰えていない。
「負けはしなかった。またチャンスはあると思う」
高谷と同じ33歳。年齢的にもまだ猶予はある。社長の肩書きを持つ仕事に追われながらつかんだ夢の舞台を、田中はまだ楽しむはずだ。
「プロとして行けるところまで行きたい」
いま田中は、次戦の機会をうかがい、鍛錬の日々に戻っている。