必要とされなかったファンタジスタ=中村俊輔がスペインで活躍できなかった理由
キャリアで最後となるであろうW杯に向けて決断した移籍
ポチェッティーノ監督(左)との求めるサッカー観の違い、それが中村が活躍できなかった一番の理由だ 【Getty Images】
エール・フランスのチェックインカウンターで搭乗手続きを済ませた中村俊輔が、ゆっくりと出発ゲートへと歩いていく。前夜まで慌しく自宅の荷物を整理した。大きなスーツケースが3つ。スペインで生活した7カ月間の荷物は、予想以上にかさばった。ゲートへと歩きながら、「8年間のヨーロッパでのプレーを終えての帰国だけど」と聞くと、彼は「また新しい挑戦がはじまるという感じ」と言って、軽く握手をすると、出発ゲートの中へと消えていった。
しばらくの間、中村の移籍についてあれこれ大々的に報道していた地元メディアもこの日は空港に駆け付けず、特に大きな喧騒(けんそう)もない。それは想像していたよりもずっと静かな出発だった。
横浜F・マリノスへの移籍が決まったのは、その前日のこと。移籍は急展開で進められたが、中村の日本へ帰国するという気持ちは、ずいぶんと前から心に秘めていたものだった。
思い出すのは冬季休暇に入る直前のことだ。冬季休暇前の年内最終戦、アルメリア戦をベンチで終えた中村は、試合後にこうつぶやいていた。
「一度日本に帰っていろいろと考えないと」
前節のバルセロナ戦を含め、中村は2試合連続で出番なしという状況に陥っていた。出場できないのは「自分の力が足りないから」と、日々練習に取り組んでいたものの、このままでは6月のワールドカップ(W杯)への影響が出るであろうことも理解していた。
移籍の最大の理由は、本人も語っているように、W杯を考慮してのものだった。前回大会を不本意なまま終えた中村にとって、キャリアで最後となるであろう今大会は、何よりも重要なものだった。そんな大会のことを考えると、エスパニョルで出場機会に恵まれないまま本大会までの時間を過ごすのは、決してポジティブなことではなかった。
中村は本当に適応できていなかったのか?
中村がバルセロナを飛びたった数時間後、エスパニョルの練習場に併設された会見場で、ポチェッティーノ監督は地元記者からの質問攻めに遭っていた。
なぜ中村は失敗したのか? 移籍による影響は? クラブとして何かできなかったのか?
「チームへの適応が大変だった上に、周囲が騒いで、彼にとっても困難な状況だった。ただ、彼はとてもプロフェッショナルな態度で最後までプレーしてくれたことに感謝している。この状況をクリアできなかったことは残念だったが……」
ポチェッティーノはこれまでにも中村が本来のプレーを見せられていない理由は「Adaptacion(適応)」にあったと語っている。サンチェス・リブレ会長も、地元紙の有名評論家も、テレビのコメンテーターも、原因はスペインという環境への適応にあったと結論づけている。現在、この町で中村について何かを話すと、ほとんど全員が「スペインの適応が難しかったから」と口をそろえる。
しかし筆者は、問題は適応にはなかったと考える。
シャワーのお湯すら満足に出ない南イタリアの田舎町レッジョ・カラブリアを生き抜いた。雪と氷と泥の上でプレーしたグラスゴー。体が冷えるからと、大好きな居残り練習もできず、あわててクラブハウスの中に戻った。設備、気候、食事。適応に関する周辺環境は、どれをとっても、スペインが最も恵まれていた。
指摘されているスペイン語の会話能力に関しても問題ではなかった。スペイン語の参考書を片手に、遠征時などに勉強していた中村は、到着後数カ月で「会話の半分は分かるんだけど、まだまだ」と言っていて、正直驚かされたものだ。
適応でも言語でもない。エスパニョルでの挑戦が途中で終わることになった一番の理由は、自身とポチェッティーノ監督の求めるサッカー観の違いだった。
最終ラインからの一本のロングボール。サイドに張った選手がドリブル突破を仕掛け、そこから派生するプレーで得点を狙う――。試合だけでなく、日々の練習メニューも、そんなサッカーのために作られていた。
「練習でボール回しなんかをしていても、やっぱりここの選手はみんなうまい。でも試合ではパスがつながらない。考え方ややり方の違いなんだろうけど……」