必要とされなかったファンタジスタ=中村俊輔がスペインで活躍できなかった理由

豊福晋

最大の理解者デ・ラ・ペーニャの負傷離脱

デ・ラ・ペーニャ(右)と中村が同じピッチに立つことはほとんどなかった 【Getty Images】

 ある1人の選手の不在も、中村のエスパニョルでの低迷に大きく絡んでいた。中村の最大の理解者であったMFイバン・デ・ラ・ペーニャである。
 8月に行われた親善試合のリバプール戦。2人は同時にピッチに立ち、何度もパスを交換しては、ピッチ上で誰よりも楽しそうにプレーしていた。
「ナカはチーム内で一番技術が高い選手だ」
 デ・ラ・ペーニャは事あるごとにそう言っていて、中村自身も「彼はいつもスルーパスを狙っている。見ていて勉強になる」と信頼を寄せていた。

 エスパニョルには、ショートパスをつなぎながらじっくりと攻撃を構築していく、そんな哲学を持つ選手は、この2人しかいなかった。しかしデ・ラ・ペーニャは開幕前から負傷が続き、ピッチ外にいることの方が多くなっていた。中村は1人で、自身のスタイルを貫こうとしたり、あるいは求められるような単独突破を試みたりもしたけれど、それが実を結ぶことはなかった。
 2人が葛藤する中で、ポチェッティーノは直線的なサッカーを貫き、結果もついてきていた。次第に中村の出番は減り、それが結果的に、W杯を見据えたこの時期での日本帰国につながったのである。

 バルセロナ市内、フランセスク・マシア広場に中村がよく通った日本料理店がある。日本へ帰国する前夜、中村はそこでデ・ラ・ペーニャとの最後の夕食を楽しんだ。
 翌朝には出発を控えていたけれど、うたげは夜遅くまで続いた。いろいろなことを話した。サッカーについて、スペインでの7カ月間、エスパニョルのこと。そしてW杯について。
 デ・ラ・ペーニャは「寂しいけれど、JリーグとW杯で頑張ってくれ」と言って、中村に別れを告げた。負傷中のデ・ラ・ペーニャは、まだ松葉づえをついていた。復帰の見込みは、いまだ立っていない。
 すでに中村が横浜FMの選手となった今でも、悔やまずにはいられない。あと数試合でよかった。中村が立つピッチで、その隣に、互いを理解し合える存在、デ・ラ・ペーニャがいたらと。この7カ月間で、2人はそれぞれが描くサッカーを、ピッチの上で共有することはできなかった。

 2月28日に行われた日産スタジアムでの横浜FM入団会見で、中村はこう話している。
「今日、こうやって戻って来られてうれしく思っていると同時に、帰りの飛行機の中で、向こうで結局結果を残せなかった悔しさも沸いてきました。この悔しさを次に生かさないと意味がないと思います」
 スペインの地で達成できなかったこと。横浜FMで続いていく彼のサッカー人生の中で、それをかなえることはできるだろうか。

<了>

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著者プロフィール

ライター、翻訳家。1979年福岡県生まれ。2001年のミラノ留学を経てライターとしてのキャリアをスタート。イタリア、スコットランド、スペインと移り住み現在はバルセロナ在住。5カ国語を駆使しサッカーとその周辺を取材し、『スポーツグラフィック・ナンバー』(文藝春秋)など多数の媒体に執筆、翻訳。近著『欧州 旅するフットボール』(双葉社)がサッカー本大賞2020を受賞。

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