「アンゴラ2010」の光と影=アフリカ・ネーションズカップ総括

市之瀬敦

勝負強かったエジプト

アフリカ・ネーションズカップ3連覇を果たして喜ぶエジプト代表の選手たち 【Getty Images】

 ワールドカップ(W杯)・イヤーに当たる2010年が明けて早々の先月10日から31日まで、アフリカ大陸南西部に位置する大国アンゴラ共和国で第27回アフリカ・ネーションズカップが開催された。優勝は06年、08年大会に続き3連覇、そして7度目のアフリカ大陸制覇を成し遂げたエジプト。昨年秋にアルジェリアに敗れてW杯本大会出場を逃した悔しさを見事に晴らしてみせた。

 そのエジプトだが、今大会を含め、過去3つの大会で一度も敗れていないというのは立派としか言いようがない。アンゴラ大会でも最強の攻撃(15得点)にして、もっとも堅固な守備を誇った(わずか2失点!)。攻守のバランスの良さがエジプトの強みである。 エジプトのストライカーと言えば、ドイツ・ブンデスリーガのドルトムントで活躍するモハメド・ジダンを思い浮かべるかもしれないが、スーパーサブにして大会得点王に輝いたナギ・ゲッドも忘れることはできない。大会通算5ゴール目は、ガーナとの決勝戦で勝利を決定づける得点であった。エジプトは経験豊富で、アフリカ王者にふさわしい戦いを見せたと言ってよい。もちろん、大会途中にエシアンという主力を欠くことになりながらも決勝まで進んだガーナの奮闘も称賛に値しよう。

 一方で、大きく失望させられたのがコートジボワールだ。誰もが大会前は優勝候補の筆頭に挙げていた。しかし、結果は準々決勝で敗退。期待のストライカー、ドログバは1ゴールしか挙げられなかった。大会後、チェルシー所属のサロモン・カルーがチーム内の不協和音を口にしているが、チームより個人プレーを重視する選手が複数いるようでは、アフリカ・ネーションズカップはもちろんのこと、今夏のW杯で同組となったポルトガルやブラジルに勝利することは難しそうである。

 さて、このアフリカ・ネーションズカップ、第1回開催は1957年。参加国こそエジプト、エチオピア、スーダンという3カ国にすぎなかったが、長い歴史を持つ大会であることが分かる。近年はアフリカ人選手のヨーロッパ主要リーグでの活躍があり、国際的な注目度もアップしつつある。さらに今年はW杯が南アフリカで開催されることもあって、世界のメディアの取り上げ方も以前より大きくなった。日本でも、W杯の初戦で対戦するカメルーンが出場するということで、地上波映像でゴールシーンを中心に楽しむことができたのは幸いであった。

やっとポルトガル語が聞けた!

 しかし、わたしにとり、「アンゴラ2010」はそれ以上の大会であった。なにしろアンゴラは1975年11月11日に独立するまではポルトガルの植民地で、独立後もポルトガル語を公用語とするアフリカ5カ国の1つなのである。1980年代後半、ポルトガルに暮らしていたころはアンゴラの政治・軍事情勢をずっとフォローしていたし、さらに1995年春にはアンゴラを代表する作家ペペテラの『マヨンベ』という小説を翻訳したこともあるのだ。それは、アフリカ大陸の中でも長い伝統を誇るアンゴラ文学を初めて日本に紹介する翻訳作品であった。

 そんなアンゴラに初めてアフリカ・ネーションズカップがやってきたのだ。というよりも初めてポルトガル語圏アフリカの国にやってきたのである。公用語という基準で考えれば、英語、フランス語、アラビア語に次ぐくらい大きなプレゼンスを誇るポルトガル語をついにアフリカサッカー界最大の祭典の場で耳にすることができた。オープニング・セレモニーで使われるポルトガルを聞きながら、サッカーの楽しみもさることながら、英語圏やフランス語圏アフリカ諸国に比べ独立が遅れたポルトガル語圏アフリカの発展と成長を喜ばしく感じたのである。

 開催地がアンゴラに決定したのは2006年9月のこと。アフリカサッカー連盟に最も早く立候補を表明し、最良の計画と評価され、選ばれたのであった。02年2月、最大野党UNITA(アンゴラ全面独立国民連合)のカリスマ的指導者ジョナス・サビンビの死によって、エンドレスのように思われた内戦に終止符が打たれ、その後は石油を武器にして驚異的な経済成長を遂げ、満を持しての立候補であった。さらに、06年W杯に初出場ながら2分け1敗と健闘した事実も評価されたのではないだろうか。

 アフリカ・ネーションズカップの開催地に決定されてから、アンゴラ政府は交通網や宿泊施設の整備に全力を注いだが、それだけでなく4都市に新たな国立スタジアムを建設した。首都ルアンダには11月11日スタジアム(5万人収容)、北部の飛び地カビンダにはシアジ・スタジアム(2万人収容)、中西部ベンゲラにはオンバカ・スタジアム(3万5000人収容)、そして中東部ルバンゴにはトゥンダバラ・スタジアム(2万人収容)が建てられた。言うまでもなく「11月11日」は独立記念日である。
 4都市だけのスタジアム建設で、広大な国土をすべて網羅というわけにはいかないが、開催都市が偏らないように配慮されたことが見てとれる。つまり、アンゴラという国家、国土の統一が重視されたのである。独立後には長い内戦に見舞われたアンゴラだが、「統一」というコンセプトは、11月11日スタジアムで実施されたオープニング・セレモニーにもはっきりと見てとれた。ポルトガル人の到着以前の時代から植民地支配や奴隷貿易、そして解放闘争を経て独立まで、アンゴラの歴史が多数の人々の舞踊によって描かれた。その歴史絵巻はアンゴラという1つの「ネーション」を十分に意識させたのである。

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著者プロフィール

1961年、埼玉県生まれ。上智大学外国語学部ポルトガル語学科教授。『ダイヤモンド・サッカー』によって洗礼を受けた後、留学先で出会った、美しいけれど、どこか悲しいポルトガル・サッカーの虜となる。好きなチームはベンフィカ・リスボン、リバプール、浦和レッズなど。なぜか赤いユニホームを着るクラブが多い。サッカー関連の代表著書に『ポルトガル・サッカー物語』(社会評論社)。『砂糖をまぶしたパス ポルトガル語のフットボール』。『ポルトガル語のしくみ』(同)。近著に『ポルトガル 革命のコントラスト カーネーションとサラザール』(ぎょうせい)

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