ファンに最も愛されたハノーファーの守護神=エンケの突然の死にドイツ中が悲嘆

小林幸帆

自ら命を絶ったドイツ代表GK

8日のハンブルガーSV戦が最後の試合となった 【Bongarts/Getty Images】

 ハノーファー所属のドイツ代表GKロベルト・エンケが自宅近くで電車に飛び込み自ら命を絶つという悲報から一夜明けた11日、ドイツ国内は今もなお大きなショックと深い悲しみに包まれている。
 各テレビ局も特別番組に差し替えて報道するなど、エンケの突然の死が与えた衝撃と悲しみの大きさは計り知れない。

 ハノーファーが11日に開いた記者会見の中で、自殺の原因が2003年から悩まされていたうつ病にあったことが明らかとなった。出席したエンケの精神科主治医によると、エンケが同医師を最初に訪れたのは、所属するバルセロナ、フェネルバフチェで苦境に立たされていた03年のことで、当時エンケはうつ病と失敗に対する恐怖感に苦しんでいたという。

 エンケは数カ月の集中治療で状態が安定し、再びサッカー選手として日常生活に戻ることができた。だが、今年10月初旬になって、出場するはずだった10年ワールドカップ予選ロシア戦の直前に原因不明のウィルス性胃腸炎で戦列離脱を余議なくされると、医師のもとに「夏ごろからまた不安定な状態にある」と連絡を入れてきたという。
 集中的な通院治療を受け、先月末には戦列復帰を果たしたが、医師が引き続き入院も含めた集中治療を勧めると、エンケは病が公になることを避けるべくこれを断り、自殺当日も快方に向かっているので治療の必要はないと伝えてきたという。

 残された遺書は遺族への配慮から内容は伏せられているが、エンケは家族や医師に対し、精神状態を偽っていたことをわびる旨を記していることが明かされている。医師も、会見に同席したエンケの妻テレサさんも、エンケからは自殺につながるような兆候は全く見られなかったと語った。

 エンケ夫人は「彼は、サッカーと私生活ですべてを失ってしまうことへの恐怖から、(病気が)公にならないことを強く願っており、それがより苦しみとなった。うつ病との闘いは簡単ではなかったが、私たちは医師の力添えもあって、バルセロナ、イスタンブールと乗り越えてきた。
 娘ララの死後(エンケは06年秋に一人娘を先天性の心臓疾患によりわずか2歳で亡くしている)も共に戦い、愛情があればすべて乗り越えられると思っていたが、常にそうとは限らなかった。サッカーがすべてではなく、人生には多くの素晴らしいことがあり、今は娘レイラ(エンケ夫妻は今年5月に生後2カ月の女の子を養子として迎えている)が、以前はララがいた。助け合えば、何事も解決策がある。彼には病院の助けを借りることも話したが、事が公になりレイラを失ってしまうことの恐怖から、それを受け入れなかった」と涙をこらえながら、誰にも知られることのなかった夫妻の苦悩について語った。

悲しみに暮れるドイツ代表の選手・スタッフ

ハノーファー市内で執り行われたミサに出席した(右から)バラック、レーブ監督、ビアホフ 【Bongarts/Getty Images】

 ハノーファーでの会見後、ドイツサッカー協会(DFB)がボンで会見を開いた。DFB会長とともに出席したビアホフ代表チームマネジャーは「昨日の夕食時に選手たちに悲報を伝えねばならず、選手たちは言葉、そして平静を失ってしまった。彼が病に苦しんでいたことなど、誰も信じることができない」と涙を流した。

 また、14日に予定されていたチリとの親善試合は中止されることが発表された。ドイツ代表のレーブ監督はDFBを通じ、「この状況で普段通りやっていけるとは誰一人として思っていない。 友人を失った今、サッカーではなくエンケの死に深く悲しんでいる 」とコメントした。
 ドイツ代表は11日午後に合宿を中断し、各選手とも帰宅の途についている。15日にハノーファーのスタジアムで行われる葬儀に参列した後、18日の親善試合(対コートジボワール)に向け合宿を再開させる。

 11日夜には、ハノーファー市内の教会にてミサが行われ、クラブの関係者やチームメート、DFBからは会長、監督、選手を代表してバラックが参列している。800人収容の教会の周りでは、中に入り切れない3000人もの人々が、エンケに別れを告げるために集ったという。
 また、市内の別の場所では、ほかのどの選手よりもファンから支持されていたキャプテンの死を悼み、ファンが葬送行列を呼び掛けると、3万5000人が参加して弔問記帳のあるスタジアムまで歩いた。

<了>
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著者プロフィール

1975年生まれ。東京都出身。京都大学総合人間学部卒。在学中に留学先のドイツでハイティーン女子から火がついた「スキージャンプブーム」に遭遇。そこに乗っかり、現地観戦の楽しみとドイツ語を覚える。1年半の会社員生活を経て2004 年に再渡独し、まずはサッカーのちにジャンプの取材を始める。2010年に帰国後は、スキーの取材を続けながら通訳翻訳者として修業中。

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