ボルト、恐怖心とライバル心から生まれた世界新=陸上男子100m
ゲイへの「恐怖」から生まれた記録
ライバルでもあるゲイ(左)の存在が、ボルトの超人的パフォーマンスを引き出した 【Getty Images】
ボルト以上にコンディションが悪かったゲイは、自分のレースをすることに全力を注いだが、ボルトは違った。スタート前から強烈にゲイを意識していた。
「スタートで負けちゃいけない」
「加速部分でリードしていなかったら負ける」
「80メートルくらいで並ばれたら、負けるかもしれない」
抜群のスタートを切り、最初の数歩でライバルたちを引き離し、加速部分(30〜40メートル)を過ぎた時点で、ほぼ勝利を確実にした。ボルト本人も「加速部分を抜けた時点で勝ったと思った」と言うが、その後も右にいるゲイの位置を確かめ続けた。2人を正面からとらえた映像では、ボルトが何度も視線を右にやるのが分かる。「ほぼベストに近いレースだったけど、時々、横を見ちゃったのがダメだったね」と本人も認める。
2年前の世界選手権大阪大会はもちろん、ボルトは何度もゲイに挑み、そしてはね返された。体と心が、その時の恐怖心をいまだに覚えている。しかし、その恐怖心のおかげで、ボルトは北京とは異なり、ゴールまで全力で走り続けた。「最後に流したら、タイソンが来る」という恐れから。
超人的な世界新を出しても、ボルトはゲイに対して強烈なライバル心と尊敬の念を持つ。
「100メートル(の金メダル)を取ったから、200メートルではタイソンがもっと必死で来ると思う。だから200メートルも(勝負は)分からないよ」
ゲイは隣で、「ムリムリ」とばかりに首を振ったが、ボルトの「恐れ」は消えない。その「恐れ」がボルトをますます高みに導いていくのだろう。
今後も楽しみなボルトvs.ゲイの戦い
1次予選、2次予選、そして準決勝と心と体は全くかみ合わなかった。特に準決勝の走りは、ここ数年で最悪のレースになり、準決勝後、もう何をどうしたらいいのか分からない、と困惑とも怒りともつかない表情を見せた。決勝までわずか2時間。修正は利かないほどの状態と思われた。
しかし、そこは抜群の集中力を持つゲイ。大舞台で持てる力を120パーセント、いや200パーセント発揮し、決勝で自己ベスト、そして米国新を出したところは高く評価できる。
「負けて悔しいけれど、持てる力は発揮した」
手術が必要なほどの大きな故障を抱えているにもかかわらず、そのことは公の場ではほとんど口にしなかった。言い訳をせず、負けを認め、勝者を称える。彼もまた、ボルトと同じくらい「器の大きさ」を持つ。
「100パーセントの状態なら、もっといい走りができたのに」。レース後に記者たちの前に表れたゲイの顔には、そう書いてあった。しかし、「口が裂けてもそんなことを言わない」と心に決め、「ボルトはこれくらいのタイムが出せて当たり前だと思っていた。心からおめでとうと言いたい」と長年の“陸上仲間”で“戦友”のボルトを称えた。
ボルトとゲイは、8月にミュンヘンの病院で顔を合わせている。ボルトは定期健診のために、ゲイは治療のためにそこを訪れていた。ボルトは、ゲイの症状があまり思わしくないことを知っていたのだろう。レース後はゲイを気遣うコメントを連発した。
「タイソンはとても素晴らしい選手。ずっといいレースをしていきたい。負けないように、僕も頑張らないと」と言って、ゲイの耳元で何かささやくと、がっちりと2人は握手を交わした。
史上最速のレースを作った2人はまだ若い。彼らはこれから何年か、素晴らしいショーを見せてくれるだろう。願わくば、ボルトとゲイ、そしてほかの選手がけがをせず、いつも100%に近い状態でスタートにつくこと。毎年、彼らの勝負を見られたら、そんなに幸せなことはないだろう。
真夏の夜の夢は、しばらく覚めそうもない。
<了>