玉木正之氏「東京五輪に賛成する理由」−前編ー

構成:スポーツナビ

米国に対抗する外交力を身に付けてほしい

東京五輪開会式 開会式で入場行進する日本選手団=1964年10月10日、国立競技場 【共同】

――日本は世界にどのように五輪招致をアピールしていきますか?

 おれが言うのはおこがましいぐらい難しい話だよね。今度米国は70兆円だか、史上最大の経済復興政策をやるとか言ってるでしょ。米国に金がなかったら、日本に「国債買え」と言ってくるわけでしょ。(それに対して強く)言えるかどうか。おれは知りませんよ。それぐらいの外交力を身に付けてほしいなって気がするよね。

 2012年のロンドンがなぜ決まったのか。イラク戦争に反対したフランスだけにはやらせたくなかったからで、米国の票が最後にロンドンに行ったというだけ。もともと12年は、ニューヨークでやる予定だった。ニューヨークは08年のときも、一番最初に立候補したけど、米国政府の要望で立候補をやめているわけですから。だから08年の次はニューヨークだと思っているときに、(01年の)9.11(米国同時多発テロ事件)が起きるわけですよ。だからこそ、ニューヨークは9.11の後に復興五輪をやりたかった。復興五輪でいいでしょと思って、力が入らなかったことが一つと、それとソルトレイク(冬季)五輪で世界貿易センタービルの跡地から発見された星条旗を出してきたので、米国ナショナリズムが相当鼻に付いたことも一つですよ。「米国、米国」で五輪をやられても困るなというのがIOCの委員の中に広がって、マドリードと、パリとロンドンに票が流れて、ニューヨークは早くに(候補から)落ちるんですよ。落ちた米国はそんなに言うんだったら、イラク戦争に反対した国ではやらせないよと。それで、2012年のロンドンが決まったんですよ。

――玉木さんは、そもそも東京五輪の開催に賛成ですか?

 どうも東京に来そうな気配がしてきたから、呼べそうなら今こそ力を使うべきだと。アイデアとしては悪くないし、エコの話も、緑の五輪も、約7割が既存施設という話もいいし。

 1964年の五輪のときにはやはり新幹線ができた、首都高速道路ができた、名神高速道路ができた。今度は、東京湾に大きな森が生まれるとか、太陽光発電のスタジアムが生まれるとか、バリアフリーの地域が増えるとか。新しい財産、インフラストラクチャーが生まれる。そういうのは悪くないなと思いますね。

 もう一つプラスするならものすごい個人的な事情。64年の東京五輪でスポーツライターを目指した男が、(2016年の東京五輪で)これでうまく閉じられる、できすぎの一生だったなと(笑)。

――今回、東京のど真ん中、半径8キロの中に、施設がほとんど入りますよね。

 ただ、それが逆に東京だけの祭りになってしまう可能性はあるけど、日本全国で合宿をすることになるよね。北京五輪のように。北京でも(日本に)40カ国が来たんだから。100を超える国が日本中にばらばらに来てトレーニングして、時差ぼけを直してから、東京に集まるでしょ。
 また、サッカーの予選では全国に散らばるよね。そういうことを考えると日本全国規模の祭典という言い方もできる。いざ始まったら8キロ以内からは、射撃とサッカーの予選が外れるくらいのものですよ。

――あえてデメリットについてお伺いしたいのですが。

 デメリットはないよ。いろいろと調べたときに、街の声とかがないわけでなくて、ただでさえ道路が混んでるのに、また混むとか言っている人もいるけど、(五輪期間中の)2週間ぐらい遊べよと思うしね。

1964年の東京五輪の開会式は衝撃的だった

――ところで玉木さんは、64年の東京五輪でスポーツの道に進まれたとのことですが。

 うそやけどね。後付、後付(笑)。ただ、24、5歳で字を書く仕事をしようとしたときに、スポーツというのがものすごく頭の中にあったことは事実ですよ。スポーツがなぜ頭にあったかというと、小学6年生のときにテレビで見た東京五輪の印象があって、スポーツというのは素晴らしいものに違いないという印象があって。あとでスポーツライターという言葉を発見したときに、すごいうれしかったですよね。

――その東京五輪とは、どのような五輪だったのでしょうか?

 一番衝撃を受けたのは、開会式ですよ。世界中の人々が行進するだけなんだけど、親父とか、近所の年寄り連中はみんな泣いていたんですから。
 なぜかっていったら、64年でしょ。そこから20年前っていったら、戦争があってうちの親父なんか、中国戦線で泥の中で寝ていたんですよ。そのたった20年後に、世界中の人が集まった五輪というお祭りが開催されるってすごいことだよね。子供のときには泣いている理由がまったく分からなかったけど。

 あと、聖火について。聖火の最終ランナーの坂井義則、1945年8月6日生まれの人よ。広島の原爆が落ちた1時間半後に広島で生まれた人よ。それはね、世界に向けてのものすごいメッセージなんですよ。アテネからベイルート、イランのテヘラン、パキスタンのラホールと聖火が運ばれて、そのあと、クアラルンプール―マニラ―香港―台北と、要するに日本の占領地を回ることによって、日本は平和な国に生まれ変わりましたよというアピールした。当時、米国の占領下だった沖縄に来て、そこで『君が代』が流れて、日の丸が揚がったんだから。ここは本当は日本の領土よって。沖縄でYS−11という戦後初の国産の旅客機に乗せて聖火を運んだ。これは、米国が日本に航空機産業は復活させないと言っているのに対して、ものすごいアピールだった。当時の政治家は、結構主張したよね。

「この創られた平和を夢で終わらせていいのだろうか」

――では、玉木さんは五輪の魅力は何だと思いますか?

 映画監督の市川昆さんと対談したときに、面白いこと言っていました。東京五輪の記録映画を撮っているときに、駒沢のサッカー場でフィルムを回していたら、7、8人のおばあさんたちがぞろぞろやってきて、「すみません。五輪はどこでやっているんですか?」って。昆さんはそのときに五輪とは何かと、本気で考えたと。国中が大騒ぎして、五輪、五輪と言っているけど、来てみたら、ボール蹴って、サッカーやってる。五輪ってなんやねんっていう。そこから、市川昆さんが考えて、「人類は4年ごとに夢を見る」って言葉を作ったわけですよ。あの映画は、僕は素晴らしい映画だと思うんですよ。東京五輪の閉会式が終わったあとに、「この創られた平和を夢で終わらせていいのだろうか」という言葉で終わるんですよ。五輪っていうのは、一言で言うと、地球上最大のお祭り。それをこのまま終わらせていいのだろうか?と、まあそういうことですね。

 前のIOCの会長の(フアン・アントニオ・)サマランチが、五輪憲章をすごくきちんと推敲(すいこう)しようと言って、五輪休戦を言い出したのね。古代のギリシャでは、五輪開催中に、戦争はしないと。それをギリシア語ではエケケイリアというんだけれど、それを近代五輪でもやりたいと言い出した。実際に2004年のアテネのときは実現しなかったけど、平和の祭典というのは事実だと思うね。

――こういったことをアピールしつつ、五輪は、若い世代へ遺産を残して行きたいってことですね。

 「スポーツ」の意味って、本当に学ばないでしょ? 学校では体操服に着替えて運動するだけで。サッカーは手を使っちゃいけないって言われれば、なぜ手を使っちゃいけないか理由は、考えたこともないし、聞いたこともないわけですよ。でもフットボールの歴史を知らないと、ヨーロッパの歴史が分からないし、ベースボールの歴史を知らないと米国の歴史が分からない。というところまでスポーツっていうのは、日常に入り込んでるんですよ。そういうものをもう一度考え直す場として、東京に五輪が来ることをものすごい期待していますね。

<後編に続く>※後編は3月16日予定

玉木正之/Masayuki Tamaki
1952年京都市生まれ。中学・高校時代に所属したバドミントン部では、高校2年生のときに京都府大会団体優勝の実績を持つ。72年に東京大学教養学部に入学し、3年後に中退。ミニコミ出版の編集者などを経て、フリーの雑誌記者に。その後、スポーツライター、音楽評論家、放送作家としても活躍し、『Number』、『ダ・カーポ』、『週刊現代』、『サンデー毎日』などの雑誌、朝日、産経などの新聞各誌で、スポーツ・コラム、連載コラムを執筆。歯に衣着せぬトークで、数々のテレビ番組にも出演する。

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