女王に死角なし――吉田沙保里が連覇する理由=女子レスリング連載第4回

宮崎俊哉

アテネ五輪で優勝した吉田はコーチを肩車し喜びを爆発させた 【写真は共同】

 4年前のアテネ五輪。優勝の瞬間、吉田沙保里は恩師・栄和人コーチを肩車し喜びを爆発させた。この様子は世界中のメディアに発信され、金メダル16個と躍進した日本選手団を象徴する名場面として記憶された。
 北京五輪女子レスリング55キロ級の吉田沙保里(ALSOK綜合警備保障)は8月16日、五輪連覇をかけマットに上がる。この4年間、公の場では必ず「連覇します」といい続けてきた。今年1月、連勝記録がストップしたあとも、自分に言い聞かせるように「連覇」を口にしてきた。
 本番を前に敗戦を経験したことで、無敵の女王はプライドを捨て、ガムシャラに練習に打ち込んだ。体も心もさらにたくましくなった沙保里に死角なし。2008年8月、歓喜の瞬間、どんな名場面を見せてくれのだろう。

プレッシャーをエネルギーに

「4年後、北京でオリンピック2連覇はもちろん、8年後はロンドンで3連覇。引退するまで負けなしで勝ち続けます」
 チャンピオンとなったアスリートの多くが、次の大会に向けては決して「受けて立つ」とは言わず、「優勝したことは過去のこと。新たに挑戦者として戦います」と口にする。そして、「連勝記録は気にしません。1試合1試合全力で頑張ります」と話すが、沙保里は金メダルを獲得したアテネ五輪直後からそう断言してきた。
「連勝」「連覇」
 悲壮感など微塵も感じさせず、笑顔でサラリと言ってのけながらも、一つも負けられないというプレッシャーで自らをがんじがらめにした沙保里は、自分を奮い立たせ、それをエネルギーとして戦ってきた。

まさかの連勝ストップで号泣

連勝がストップし号泣する吉田。この涙が彼女をさらに強くした 【写真は共同】

 そんな無敵のチャンピオン吉田沙保里に、ついに土がついたのは、今年1月に中国・太原で行われた国別対抗戦ワールドカップでの米国戦。相手は昨年の世界選手権10位、全くノーマークのマルシー・バンデュセンだった。
 得意の高速タックルを第1、第2ピリオドとも返され、連勝は119でストップ。バンデュセンは、日本レスリングの父・八田一朗の次男・忠朗からタックル返しを徹底的に教え込まれていたとはいえ、これまで“ヨシダ”と聞いただけで戦力を喪失していた各国の選手たちも、無名の選手が沙保里を倒したことによって「自分も」と俄然やる気を起こしてくるだろう。

 しかし、それ以上に沙保里は進化を遂げた。マスコミは「吉田沙保里、オリンピック2連覇に黄色信号」と書き立てたが、この敗戦によって逆に、沙保里の北京での優勝確率は上がったと見る関係者も少なくはない。
 実は、沙保里のタックルが返されたのは、このときが初めてではなかった。アテネ五輪準決勝でも、2006年世界選手権準決勝でも、沙保里はタックル返しにあっているが、そのときはセコンドの栄和人日本代表女子ヘッドコーチ(中京女子大監督)の指示によって片足タックルに切り替え、致命傷には至らなかった。瞬時にそれができたのも沙保里の類まれな運動能力と、物心ついた頃からマットに上がり、父親から叩き込まれたレスリングセンスがあってこそだが、今回は切り抜けられず、2度までも返された。

 沙保里のテクニックが伸び悩んでいたわけではなく、アテネ以降も年々研ぎ澄まされてきたことは間違いない。連勝記録こそが、その証である。体重も増え、パワーもアップした。組み手、さばき、グラウンド技も上達し、もつれたときでも常に上になるボディーバランスも磨かれた。しかし、肝心のタックルを徹底的に“分解掃除”することはなかった。勝ち続けてきた者が、伝家の宝刀を打ち直さなかったからといって、どうして責められようか。
 沙保里の敗戦のショックは凄まじかった。マットから降りると涙が止まらず、一人では歩けなかった。翌日、帰国の途についても胃けいれんは収まらなかった。それでも、両親に励まされ、チームメートやライバルたちに支えられ、沙保里は立ち直った。

女王のプライドを捨てガムシャラに練習

世界一のタックルにさらに磨きをかけた 【スポーツナビ】

 敗戦を報じるスポーツ新聞が掲げられた中京女子大レスリング場で、沙保里は必死にタックル返し対策に打ち込んでいる。ポイントは2つ。ノーモーションから一気に入るこれまでのタックルでは、頭が下がり、腰が上がった状態となるため、返されやすい。そうならないようにするには、入ったら頭を上げ、胸で突き上げるように当たり、抱え上げる。そして、もう一つはタックルに入った瞬間、相手の横につく。この練習を繰り返し、世界1、2のディフェンス力を誇る伊調姉妹とのスパーリングで実践練習も積んできた。
 自分より軽く、スピードのある千春に対して、練習したタックルの動きができるか。自分より重く、パワーのある馨を相手に、タックルに入ったあと胸を張って持ち上げることができるか。時には返されることもあるが、沙保里はプライドを捨て、ガムシャラに挑んでいった。

 北京五輪での金メダル獲得をジグゾーパズルに例えるなら、沙保里にはたった一つだけ、足りないピースがあった。全体の絵の構成には関係ない、隅っこのどうでもいいような小さな1ピースだが、それだけは勝っても勝っても、どうしても埋められなかった。ところが、沙保里はそれをオリンピックイヤーに入ってから、“負け”て突き落とされたドン底から拾い上げてきた。
 パズルは完成した。今もう、吉田沙保里に突け入るスキはない!
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