中村礼子選手との初めての出会いは、まだジュニアの時でした。私より２つ年下の彼女の泳ぎやレース展開は当時から光るものがあり、美しく安定した泳ぎに加え、後半の粘り強さに、同じ背泳ぎの選手として、私も脅威を感じた一人でもあります。

　しかしその後、中村選手はなかなかジュニアレベルから脱皮できない選手生活を送っていました。中でも印象的だったのは、２００２年に彼女の地元である横浜で開催されたパンパシフィック選手権でのこと。２００ｍ背泳ぎの自己ベストタイムでは、当時すでに日本人２位の記録を保持していた彼女ですが、予選レースで３位に終わり、決勝に進出できない屈辱を味わったのです。当時を振り返り、「練習で強くても、試合で力を発揮できない選手でした」と本人も語っています。

　しかし、そんな彼女を変心させたのは、アテネ五輪の１００ｍ、２００ｍ平泳ぎで２つの金メダルを獲得した北島康介選手の指導者、平井伯昌コーチとの出会いでした。０３年のシーズン後、中村選手は練習環境を変える覚悟を決めました。選手にとって環境を変えることは、相当な勇気とエネルギーを必要とします。しかし彼女は、新しい自分になるために、そして大きな夢でもあった五輪出場に向けて、決心を固めます。
　指導を引き受けた平井コーチは、当時の彼女の様子をこう振り返っています。
「もともと強い選手だったが、自信を持ってなかった。だから、とにかくレースで力を発揮できる自信を付けさせたかった」

「０４年のアテネ五輪国内選考会を前に環境を変えたことで、不安はなかったのか？」という私の問いに対し、中村選手は「不安にならなかったと言ったら、うそになる。でも不安になっている暇はなかった。毎日毎日が必死でしたから」と答えてくれました。

　しかしそんな中でも、彼女の顔に不安が広がっていると平井コーチはすぐに察知し、彼女の不安を消すために、たくさんのコミュニケーションを取り、その不安を取り除いたそうです。変心を遂げた彼女は、本当に強くなりました。そしてアテネ五輪の国内選考会で圧勝し、１００ｍと２００ｍの２種目で五輪の切符を手にします。その時に見せた強さは、いったい何だったのか？　彼女自身は、こう話しています。
「私は五輪へ出たい！　その気持ちだけでした。でも平井先生は違う。もう一歩、二歩、先を見ていました。出場権を獲得する前から、『五輪でメダルを狙うぞ！』と言ってくれたのです。目標を大きく掲げてくれたからこそ、今の私がある」
　平井コーチの言葉が、彼女の心に大きな変化を与えたのです。そしてその後、彼女は急成長。泳ぐたびに強くなっているような、そんな錯覚を起こすほどでした。

　迎えたアテネ五輪の２００ｍ背泳ぎ決勝。極度の緊張からか、彼女は不安に襲われました。しかし、その状況を悟ったかのように平井コーチは彼女の手に、「大きく」「平常心」と言葉を書き、力を与えたそうです。レース直前、その手に書かれた言葉を見て、リラックスできたという彼女は、初めての五輪で銅メダル獲得し、同時に日本新記録の樹立という偉業を成し遂げました。