熊本の見果てぬ夢 〜ロアッソ熊本の挑戦
熊本の見果てぬ夢
しかし2004年9月、その夢は実現に向けて大きな一歩を踏み出すことになる。Jリーグへの挑戦を、自治体や経済・労働団体、さらに一般市民のパワーを結集して県民運動として推進。「熊本に元気の源をつくる」ことを狙いとして、「熊本にJリーグチームを」県民運動推進本部が設立されたからだ。そして、アルエット熊本を引き継ぐ形で新チームを作ることが決定され、11月には元柏レイソルの監督である池谷友良を初代監督として招へい。12月には株式会社アスリートクラブ熊本が設立された。
アルエット熊本を母体にしたとはいえ、新チームは選手もスタッフもいなければ、練習場もない、事実上ゼロからのスタートだった。それを「熊本に骨を埋めるつもりで頑張る」という池谷監督の情熱が支えた。そして05年2月、元JリーガーやJFLの選手を中心にした24名全員がプロ契約という、地域リーグ所属チームとしては異例のチーム「ロッソ熊本」が誕生した。それはJリーグに挑戦するチームではなく、Jリーグに昇格することが義務付けられたチームだった。
挫折からの生還
秋を境にしてチームに勢いがなくなり、そして、JFL2位以内という条件を満たせずに(最終順位5位)Jリーグ昇格を逃してしまう。その影響は思った以上に大きかった。周囲にはJリーグ昇格は当然という雰囲気が出来上がっていたからだ。支援を打ち切るスポンサーが現れ、サポーターとの衝突も経験した。さらには、翌年からのJリーグ昇格を前提として組んだ07年度予算とのギャップを埋めなければならない事態にも陥った。「1月中は死んだようになっていた」(上保氏)。大きな挫折だった。
迎えた07年シーズン、Jリーグ昇格以外の結果は許されない中でのリーグ戦は大きなプレッシャーとの戦いだった。昇格を逃せばクラブ存続が危ぶまれるのではないかという危機感さえ抱えていた。だが、ここからクラブは再び前を向いて走り出す。県民の夢を背負う責任感と、夢への挑戦を後押しする人たちの強い思い。それが力を生んだ。最終順位は2位。ロッソ熊本は、「ロアッソ熊本」と名称変更し、クラブ設立から4年目でJリーグ入りを果たした。それはクラブと支援する人たちの力と、Jリーグへの挑戦を続けてきた先人の礎があったからこその結果だった。