熊本の見果てぬ夢 〜ロアッソ熊本の挑戦

中倉一志
 九州に4つ目のJクラブが誕生した。ロアッソ熊本。熊本のサッカー関係者の果てしない夢を引き継ぎ、チーム設立後4年目でJの舞台にたどり着いた。しかし、ひとつの夢の実現は、さらなる夢の始まり。彼らの本当の物語はここから始まる。

熊本の見果てぬ夢

 おらが町にJリーグを。それは熊本県のサッカー関係者にとっての「見果てぬ夢」だった。古くは東亜建設工業のサッカー部である「ブレイズ熊本」がJリーグ開幕と時を同じくして夢の舞台を目指し、次いでは日本電信電話公社熊本(現NTT)サッカー部を母体とする「アルエット熊本」が2000年にJFL挑戦を目標に掲げ、その先にあるJリーグを目指した。だが、さまざまな事情から夢は断たれ続けてきた。

 しかし2004年9月、その夢は実現に向けて大きな一歩を踏み出すことになる。Jリーグへの挑戦を、自治体や経済・労働団体、さらに一般市民のパワーを結集して県民運動として推進。「熊本に元気の源をつくる」ことを狙いとして、「熊本にJリーグチームを」県民運動推進本部が設立されたからだ。そして、アルエット熊本を引き継ぐ形で新チームを作ることが決定され、11月には元柏レイソルの監督である池谷友良を初代監督として招へい。12月には株式会社アスリートクラブ熊本が設立された。

 アルエット熊本を母体にしたとはいえ、新チームは選手もスタッフもいなければ、練習場もない、事実上ゼロからのスタートだった。それを「熊本に骨を埋めるつもりで頑張る」という池谷監督の情熱が支えた。そして05年2月、元JリーガーやJFLの選手を中心にした24名全員がプロ契約という、地域リーグ所属チームとしては異例のチーム「ロッソ熊本」が誕生した。それはJリーグに挑戦するチームではなく、Jリーグに昇格することが義務付けられたチームだった。

挫折からの生還

 地域リーグから数えて最短の3年後のJリーグ昇格を目指したロッソ熊本は、05年の九州リーグを首位で突破。全国地域リーグ決勝大会では3位に終わったが、当時JFLだった愛媛FCがJ2に昇格したため、入れ替え戦なしでJFL昇格を果たす。翌06年にはJリーグ準加盟を果たすとともにリーグ戦を順調に消化し、9月にはJリーグ昇格後をにらんでクラブ運営の強化のため、後に事業・運営本部長となる上保毅彦氏を招へいした。クラブはJリーグへの道を着々と歩んでいるかのように見えた。しかし、実態は何もないところから全力で走り続けるチームであることに変わりはなかった。その負担の影響もあったのだろう。クラブは最初の挫折を経験する。

 秋を境にしてチームに勢いがなくなり、そして、JFL2位以内という条件を満たせずに(最終順位5位)Jリーグ昇格を逃してしまう。その影響は思った以上に大きかった。周囲にはJリーグ昇格は当然という雰囲気が出来上がっていたからだ。支援を打ち切るスポンサーが現れ、サポーターとの衝突も経験した。さらには、翌年からのJリーグ昇格を前提として組んだ07年度予算とのギャップを埋めなければならない事態にも陥った。「1月中は死んだようになっていた」(上保氏)。大きな挫折だった。

 迎えた07年シーズン、Jリーグ昇格以外の結果は許されない中でのリーグ戦は大きなプレッシャーとの戦いだった。昇格を逃せばクラブ存続が危ぶまれるのではないかという危機感さえ抱えていた。だが、ここからクラブは再び前を向いて走り出す。県民の夢を背負う責任感と、夢への挑戦を後押しする人たちの強い思い。それが力を生んだ。最終順位は2位。ロッソ熊本は、「ロアッソ熊本」と名称変更し、クラブ設立から4年目でJリーグ入りを果たした。それはクラブと支援する人たちの力と、Jリーグへの挑戦を続けてきた先人の礎があったからこその結果だった。

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著者プロフィール

1957年生まれ。サッカーとの出会いは小学校6年生の時。偶然つけたTVで伝説の「三菱ダイヤモンドサッカー」を目にしたのがきっかけ。長髪をなびかせて左サイドを疾走するジョージ・ベストの姿を見た瞬間にサッカーの虜となる。大学卒業後は生命保険会社に勤務し典型的なワーカホリックとなったが、Jリーグの開幕が再び消し切れぬサッカーへの思いに火をつけ、1998年からスタジアムでの取材を開始した。現在は福岡に在住。アビスパ福岡を中心に、幼稚園、女子サッカー、天皇杯まで、ありとあらゆるカテゴリーのサッカーを見ることを信条にしている

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