「町田」にこだわり続ける理由 J2・J3漫遊記 FC町田ゼルビア編

宇都宮徹壱

ゼルビアキッチンに見る「地域密着の形」

昨年9月に開業した「ゼルビアキッチン」。練習を終えた選手たちが、地元の人々と同じ空間で食事をしている 【宇都宮徹壱】

 小田急線の「町田市の東の玄関口」鶴川駅。急行が止まらないのに、1日の平均乗降人員が6万8000人を越えるこの駅は、FC町田ゼルビアを取材する際の起点となる。駅構内の跨線橋(こせんきょう)には、週末の試合結果とJ2の順位表、そして次のホームゲームの日程が貼り出されてあるのだが、果たしてどれだけの通勤・通学客が気にしているのだろうか。今季、4シーズンぶりにJ2復帰を果たした町田は、誰もが予想しなかった素晴らしいシーズンを送っている。セレッソ大阪との開幕戦には0−1で敗れたものの、その後は5連勝を含む11戦負けなし。第9節には、クラブ創設初となるJ2首位に立って周囲を驚かせた。

 もっとも、今回私が向かう先は町田市立陸上競技場(通称、野津田)ではないし、今季の町田の強さを探ることが目的でもない。駅前から出ている「野津田車庫行」のバスに乗って向かったのは、クラブが昨年9月に開業した定食屋『Zelvia×Kitchen(以下、ゼルビアキッチン)』。店内に入ると、午前の練習を終えたと思しきトップチームの選手4人が、大型モニターに映し出されたスカパー!の中継映像を横目で見ながら食事をしている。広い店内を見渡すと、他にもクラブスタッフや近所の一般客、さらには町田の番記者をやっている同業者の姿も見えた。

 クラブの名前を冠した食堂で、選手やスタッフ、そして地域住民が同じ食事と空間を共にすることができる。これはこれで、ひとつの「地域密着の形」と言えるのではないだろうか。ゼルビアキッチンのアイデアを思いついたのは、クラブ社長の下川浩之。「今はクラブハウスを作れないから、まずは食堂を作ろう」という発想だったらしい。以下はクラブ広報、近藤安弘の解説である。

「もともとアカデミーも含めて選手の食の環境を良くしたいというのがスタートです。ここ(ゼルビアキッチン)のすぐ近くにトップチームの選手寮があるんですが、クラブと提携している定食屋には自転車で30分くらいかかりました。それとユースやジュニアユースでは、お弁当を出していたのですけれど、食べ盛りの子供たちにはやっぱり温かい食事を提供したいという想いもありました。このゼルビアキッチンができたことで、トップの選手は食事の選択肢が広がりましたし、育成年代の子たちは練習後にここで夕食を摂ることができるので、保護者の皆さんからもご好評いただいています。また、ここは食堂であると同時に、ゼルビアの発信基地という役割もあります。今季はチームが調子いいので、地元の方々もここで食事しながらゼルビアのことを話してくださるのはうれしいですね」

「町田に恩返しがしたい」という想い

丸山竜平強化部長。町田生まれの町田育ちで、「サッカーを通じて町田に恩返しがしたい」と語る 【宇都宮徹壱】

 首都・東京において「ひとり勝ち」を続けているJ1のFC東京に対し、都内に本拠を置く他のJクラブは、どのような独自性を打ち出しながら地域密着を図ろうとしているのか──。前回は「東京の2番手」というポジションを自覚しながら、地道なホームタウン活動を続けている東京ヴェルディの現状をお伝えした。今回フォーカスするゼルビアの場合、最初から「東京」を名乗ることなく、人口約43万人の町田市にこだわり続けたという点では、ヴェルディとは真逆のアプローチである。なぜ「東京」ではなく「町田」なのか。最初に話を聞いたのは、「生まれも育ちも町田」という強化部長の丸山竜平である。

「町田市内には町ごとに少年サッカークラブがあって、自分は小山FCというチームでサッカーを始めました。そこで、のちのゼルビアの創始者となる重田先生と守屋先生と出会いました。小山FCをはじめ市内にはクラブチームが複数あったのですが、それぞれのサッカークラブの選抜チームがFC町田。このFC町田を立ち上げたのも、重田先生や守屋先生です。お2人はまさに僕のサッカーの恩師で、FC町田のジュニアとジュニアユースで指導していただきました」

 丸山を指導した「重田先生と守屋先生」というのは、この街の少年サッカー文化を根付かせるために情熱のすべてを捧げてきた小学校教師、重田貞夫(故人)と守屋実のことである。重田は、静岡県清水市(現静岡市)の選抜チーム「清水FC」から着想を得て、FC町田を結成する。やがてジュニアの卒業生のために、ジュニアユース、ユース、そしてトップチームが作られ、重田は初代監督となった(89〜95年)。チーム名が「FC町田ゼルビア」となったのは97年のこと。その5年後の02年からは、守屋が3代目の監督となり、クラブ史上初のプロ監督となる戸塚哲也を迎える08までチームを率いた。

 Jリーグが影も形もなかった時代、なぜ少年サッカーの街にトップチームが設立されたのか。それは、町田には成長してからの受け皿がないために、高校生年代になった子供たちが流出してしまうという、止むに止まれぬ事情があったからだ。では受け皿ができた今、町田のサッカー少年の流失は止まったのだろうか。丸山の答えは「否」である。

「確かに受け皿はできたんですけれど、町田は川崎市や横浜市と隣接していますので、才能のある子供たちは川崎フロンターレさんや横浜F・マリノスさん、あとはFC東京さんや東京ヴェルディさんにどうしても行ってしまう現状です。それと残念ながら、町田はグラウンドが少ないんです。ナイター設備があるのは、われわれが練習で使っている小野路グラウンドを含めて市内に数カ所。人口は43万人もいるので、もっとあってもよいと思うのですが……」

 そんな環境でも、昨年は東京都4部の町田ユースが日本クラブユースサッカー選手権に出場して話題にもなった。少年サッカーの街・町田に底知れぬポテンシャルがあるのは間違いない。実際、この街からは、北澤豪、坪井慶介、戸田和幸など、幾多の日本代表やJリーガーを輩出している。ただし一方で、環境面でおのずと限界があるのも事実。丸山自身は、町田を離れてプロ選手を目指すとか、より大きなJクラブで働くといった野心を抱いたことはないのだろうか。私の疑問に対し、町田愛あふれる強化部長は首を横に振った。

「確かに自分は帝京に進学しましたけれど、町田を出たいと思ったことはないです。大学を出て、ゼルビアに呼んでいただいた時もうれしかったですし、強化部長となったときにも『サッカーを通じ、自分を育ててくれた町田に恩返しがしたい』という想いがまずありました。それに、重田先生、守屋先生が作ってきた町田のサッカー文化を引き継いで、次の世代に伝えていくのが僕らに与えられた使命だと思っています。実際、今のクラブのスタッフも、事業、強化、普及、育成も含めて町田出身者が多いんです」

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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