「町田」にこだわり続ける理由 J2・J3漫遊記 FC町田ゼルビア編

宇都宮徹壱

政令指定都市でもない街にJクラブがあること

下川浩之代表。もともとは飲食業や建築業の経営者で、「ゼルビアキッチン」の発案者でもある 【宇都宮徹壱】

 ゼルビアがJクラブとなる、重要な岐路となった年はいつか? 私は関東1部1年目、07年のオフであったと確信している。当時、クラブを運営していたNPO法人AC(アスレチッククラブ)町田のスタッフが、地元の建築会社「イーグル建創」に営業の電話をした際、たまたま社長の下川が電話をとったのが、すべての始まりであった。下川は当時、「いずれ事業で大成功したらプロサッカークラブの社長になりたい」という漠然とした夢を抱いていたが、ゼルビアの存在は知らなかったという。とりあえずはスポンサーになったものの、「上を目指す」と聞いていたクラブの実情に下川は愕然とする。

「07年に大分で行われた全社(全国社会人サッカー選手権大会)に、ゼルビアが出るというので観に行ったんですよ。そうしたら監督の守屋さんがベンチにいない。『学校の行事で来られませんでした』と。本気で上を目指すんだったら、プロの監督を呼ばないといけない。そこで、かねてから親交のあった戸塚さんに監督をお願いしました(08〜09年)。運営組織についても、JクラブになるんだったらNPO法人のままではダメなので、1株5万円で5000万円集めて会社を作ることにしたんです」

 会社を作る手助けはしたものの、自身が社長になるつもりはなかったという。しかし、当時理事長だった守屋をはじめ町田サッカー協会の重鎮たちに頭を下げられて決断する。その際、守屋からひとつだけ出された条件は「自分の気持ちだけでやらないでほしい」であった。ずっとビジネスの世界で生きてきたとはいえ、下川のクラブ社長としての実力は未知数。「暴走しないように」という意味合いもあったのかもしれない。とはいえ、下川自身も元サッカー少年であり、帝京高校と国士舘大学でプレーを続けてきた関係で、サッカー界にはそれなりに人脈を持っていた。初のプロ監督として招へいした戸塚についても、実は大学時代に練習時代で対戦したことから親交があった。ただし2人が再会したのは、ちょっと意外な場所であった。

「06年に秋田で開催された全社ですよ。帝京サッカー部の後輩だった川添(孝一)に誘われて行ってみたら、当時FC岐阜の監督だった戸塚さんがいて、びっくりしてさ。『哲ちゃん、なんでこんなところにいるの?!』って声をかけたら、『これからは地域リーグの時代なんだよ』なんて言って(笑)。その日の夜は、久々に昔のサッカー仲間と飲みましたね。あれが、サッカーの世界に戻るきっかけだったかもしれません」

 下川もまた、小学2年の時からずっと町田で育ち、町田でサッカーに明け暮れ、長じてからは「町田で稼がせてもらった」。だからこそ、町田には愛着もあるし恩義もある。クラブ社長となり、スポンサー営業をしていると、時おり「東京のクラブだったら出せるんですけれど……」と断られることもあるという。それこそJ2に昇格した時に「東京FC町田ゼルビア」と改名する選択肢もあったかもしれない。果たして、クラブ名を「町田」で通す理由は何か。下川の答えは明快であった。

「県でも政令指定都市でもない町田にJクラブがある。そこに、まずこだわりを持ちたいです。それと、このクラブを作った人たちにも『少年サッカーの街・町田』というこだわりもありますから。守屋さんが言っていた『自分の気持ちだけでやらないでほしい』というのは、要するに『クラブの名前から町田を外さないでほしい』という想いがあったんじゃないかと、最近は考えるようになりましたね」

「やっぱり『町田』だから応援していたんでしょうね」

J2昇格から1シーズンで再びJFL降格となった2012年の最終節。「伝説のサポーター」もこの中にいた 【宇都宮徹壱】

 ゼルビアキッチンでの取材を終えた私は、今回の取材を締めくくるにあたり「伝説のサポーター」小森忠昭にも話を聞くことにした。小森の何が「伝説」なのかというと、前出の丸山が現役でプレーしていた都リーグ時代から、ひとりで太鼓を叩いてコールする、いわゆる「ひとりサポ」としてゼルビアを応援していたことに由来する。クラブのサポーター第1号としても知られる小森だが、最近はほとんど野津田には行っていないそうだ。

「J2に上がった12年は、けっこう通っていたんですけれど。降格が決まった最終節(対湘南ベルマーレ)のあとは、1回くらいですかね。あの試合のことは、ほとんど覚えていないです。何しろ、クラブができて初めて経験する降格でしたから、衝撃度は半端なかったです。(野津田から足が遠のいたのは)ゴール裏の人間関係に少し疲れた部分もありましたね。昔から応援していた立場からすると、サポーターが増えたのはうれしかったですけれど、ひとりで太鼓を叩いていた時代は気が楽で良かったかなと思ったりもします(苦笑)」

 AC町田時代、ボランティアで事務局長を続けていた小森には、「クラブの役員になってほしい」という打診があった。新会社(株式会社ゼルビア)が立ち上がる直前の07年暮れのことだ。会社勤めを辞めて、ゼルビアのために全身全霊で働く覚悟もできていたという。しかし結局は、新経営陣との考え方の違いから、自ら身を引く決断を下す。「でも結果として、クラブのことを考えればいい判断だったと思います」とは本人の弁。以後、JFL昇格を決めた08年の地域決勝、そして12年のシーズンを除いて、ずっとクラブから距離をとり続けている。だが、そんな小森もまた「町田」という地名には強いこだわりを持っていた。

「やっぱり『町田』だから応援していたんでしょうね。クラブ名が『東京』だったら、あれほど愛着を感じることもなかったと思います。私も町田生まれの町田育ちですが、正直、東京都民という自覚はあまりない(笑)。やっぱり自分は『町田市民』としての自覚のほうが強いんですよね。そういう感覚って、東京の他の地域で暮らしている人からすると、ちょっと特殊に感じるかもしれない」

 小森と別れてから、あらためて町田という地域の特殊性について考えてみた。神奈川の政令指定都市(横浜市、川崎市、相模原市)に三方を囲まれ、1893年(明治26年)に東京府に移管されるまでは神奈川県に属していた町田は、もともと「東京」という意識が極めて希薄な土地柄であった。そんな人口約43万人の「少年サッカーの街」にJクラブが生まれた理由を考えたとき、設立に関わった当事者たちが「町田」にこだわり続けたことへの必然的帰結であったことに気付かされる、もし、彼らが「東京の3番手」という道を選択していたら、果たして今ごろどうなっていただろうか。

<この稿、了。文中敬称略>

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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