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イチローの憧れと野茂の「女房役」が選出
グリフィーとピアザが米野球殿堂入り
グリフィーは2009年にマリナーズに復帰し、イチローのチームメートになった
グリフィーは2009年にマリナーズに復帰し、イチローのチームメートになった【Getty Images】

 99.3%──。1992年のトム・シーバー(元ニューヨーク・メッツほか)を抜き、史上最高の得票率で米国の野球殿堂入りを果たしたケン・グリフィー・ジュニアは「メジャーリーグ最後のスーパースター」と言っていい。これほどの人気を全米規模で博す選手は、今後はもう現れないのではないか。


 その人気ぶりを象徴するのが、94年のオールスターファン投票で獲得した607万9688もの票である。これは2011年になってようやく塗り替えられたものの、まだインターネット投票など存在しなかった時代にあっては、夢想もできない数字だった。


 1987年に全米ナンバーワン指名を受けてシアトル・マリナーズに入団したグリフィーは、89年に19歳の若さでメジャーリーグの舞台にデビュー。翌90年にはまだ40歳で現役だった父ケン・グリフィー・シニアとメジャーリーグ史上初の「親子チームメイト」となり、スタメンで並んだ父と「親子連続アベック弾」を放って大きな話題となった。


 この90年から11年連続でファン投票によりオールスターに選出され、ゴールドグラブ賞もこの年から10年連続で受賞。4度の本塁打王、さらに打点王、MVPにも輝くなど、グリフィーは球界のスターにとどまらず、米国を代表する人気アスリートにまでなっていった。

イチローの憧れの存在として

 その頃、グリフィーを「憧れの存在」と公言していたのが、まだオリックスでプレーしていたイチローである。99年春にはマリナーズのキャンプに参加してグリフィーと対面したイチローは、翌2000年のオフにポスティングでマリナーズに入団。しかし、その時には「憧れの存在」はもうシアトルにはいなかった。00年春のトレードで、かつて父がプレーしたシンシナティ・レッズに移籍していたからだ。


 皮肉なことに、この移籍を機にグリフィーの野球人生は暗転する。新天地1年目には史上最年少の30歳4カ月で通算400本塁打に到達し、当時のメジャー記録であるハンク・アーロン(元ブレーブスほか)の通算755本塁打の更新も期待されたが、レッズでの9年弱はケガに泣かされどおしだった。


 08年に史上6人目の通算600本塁打を達成したグリフィーは、そのシーズン途中でシカゴ・ホワイトソックスに移籍すると、翌09年は古巣のマリナーズへ復帰。これを誰よりも歓迎したのが、グリフィーに代わって「シアトルの顔」となっていたイチローだった。2人は翌10年のシーズン途中でグリフィーが引退するまで共にプレー。13年にグリフィーがマリナーズの殿堂に入ると、その時はヤンキースに移籍していたイチローはこんなメッセージを送った。


「ずっとあなたに憧れていました。09年、ついに夢がかないましたよ。あなたとチームメイトになることができた。一緒にいた時間は短かったですが、いつまでも忘れられません」


 それから2年あまり。メジャーリーグ史上最多の通算762本塁打を誇るバリー・ボンズ(元ジャイアンツほか)が、有資格4年目の今年も殿堂入りに届かなかったのを尻目に、グリフィーは有資格1年目にして全440票中、437票を得て殿堂入りの栄誉に浴した。それは彼が筋肉増強剤などの力を借りることなく、歴代6位の通算630本塁打などの記録を残したからだろう。


 グリフィーの本家殿堂入りが決まった今、イチローはどんな祝福のメッセージを用意しているのだろうか。

菊田康彦
菊田康彦
静岡県出身。地方公務員、英会話講師などを経てライターに。メジャーリーグに精通し、2004〜08年はスカパー!MLB中継、現在はスポナビライブMLBに出演。30年近いスワローズ・ウォッチャーでもある。16年3月には著書『燕軍戦記 スワローズ、14年ぶり優勝への軌跡』(発行・カンゼン)を出版。