韓国サムスン日本人コーチは星野門下生 芹澤裕二、“オヤジ”の教えでアジア奪還
創設1年目から楽天で2軍バッテリーコーチ
韓国サムスンのバッテリーコーチ・芹澤は中日、楽天にも在籍し、銀次らを指導した 【ストライク・ゾーン】
「楽天は前にいたチームですから、顔を合わせられるのは嬉しいですよ」。芹澤は球団創設1年目から5年間、楽天で2軍バッテリーコーチを務めた。ファームでは本拠地の山形をはじめ、東北各地に足を運んだ。「東北で行ったことがない町はないんじゃないですかね」。愛着のある古巣・楽天。その楽天には芹澤にとって大きな存在の人がいる。その人との出会いは芹澤のプロ野球人生のスタート地点にさかのぼる。
「星野監督は僕にとって“オヤジ”」
「(星野)監督は僕にとって“オヤジ”でもあります。闘志あふれていて、情にもろい。多くの人が持っているイメージ通りの人です」
星野監督の下、プロ生活が始まった芹澤。芹澤は高校時代、強打の捕手として鳴らしたが、プロでは芽が出なかった。10年間で1軍出場はゼロ。96年限りで現役を引退した。
翌97年、芹澤は中日のバッテリーコーチとして新たな道を歩き始める。その時の監督も、2度目の監督に就いていた星野仙一だった。芹澤は当時29歳。「30(歳)前でコーチになったので、“若くして上に立った人は、どう努力したのだろう?”といろいろな世界の人に話を聞きました。監督からは戦術はもちろんですが、“若いんだからまず体を動かせ”とアドバイスされました」。首脳陣で最年少だった芹澤の役割は、バッテリーコーチの仕事だけではなく、球場に訪れる大物OBの対応など多岐に渡り、まさに体を動かす日々となった。
若きコーチの芹澤は一度だけ、星野監督に直談判したことがある。「99年夏頃の巨人戦、中村武志捕手にファウルボールが当たって亀裂骨折したんです。本人は大丈夫と言ったんですが、監督は“中村は2軍だ!”と怒って宿舎に帰ってしまいました。しかしその頃は中村にとって大事な時期。2軍に行かせるわけにはいかないので、翌日、ホテルのエレベーターの前で、監督が部屋から出てくるのをずっと待ちました。そして、監督が現れた時に、“今、中村を落とすわけにはいきません”と言いました。すると、ほとぼりが冷めていたのか“分かった”と言ってくれました」。選手のことを自ら体を張って守った芹澤。その姿はコーチとしてキャリアを重ねた今でも変わっていない。