偉大な先人への「はなむけ」=故・長沼健さんを偲んで

宇都宮徹壱

日本サッカー、ひとつの時代の終わり

「長沼健 お別れの会」の祭壇に掲げられた遺影。会場の参列者は700人にのぼった(一般参列者除く) 【宇都宮徹壱】

 開場と同時に、男声合唱団による鎮魂の歌が流れる。祭壇に献花する来場者の列は途切れることなく続き、ハーフコートくらいは確保できそうな会場は、気が付くと立錐(りっすい)の余地がないくらいに埋め尽くされていた。700人くらい(一般参列者除く)はいただろうか。あらためて故人の幅広い人脈と尋常ではない影響力、そして人々を魅了してやまない人柄が偲ばれる。7月18日、都内のホテルにて「長沼健 お別れの会」がしめやかに営まれた。

 日本サッカー協会最高顧問の長沼健さんが77年の波乱に満ちた生涯を閉じたのは、先月2日のことであった。おりしも、ワールドカップ(W杯)アジア3次予選、対オマーン戦が横浜で行われた日で、私を含む同業者の多くはスタジアム到着後にその悲報に接することとなった。キックオフ前には黙とうがささげられ、日本代表のメンバーは喪章をつけて試合に臨んだ。結果は3−0の快勝。中澤、大久保、そして中村俊輔による3発の号砲は、日本サッカーの発展に尽力した偉大な先人への何よりの「はなむけ」となった。

 献花台の向こう側には、大きなスクリーンが設置してあって、長沼さんのサッカー人生を回顧する映像が映し出されていた。
 1954年W杯予選での韓国戦(この試合で長沼さんは日本のW杯予選第1号ゴールを決めている)。東京、メキシコ五輪(両大会で長沼さんは代表監督を務めた)。その後もJリーグ開幕、2002年W杯招致活動、W杯初出場、そして日韓W杯開催――長沼さんは協会の専務理事、会長、名誉会長として、急成長を遂げる日本サッカー界のかじ取りを担ってきた。もちろん、そのすべてが成功だったわけではないし、代表監督をめぐる人事において汚点を残してしまったのも事実である。そうした光と影、すべてをひっくるめて、長沼さんのサッカー人生は日本サッカーの戦後史と、まさに合わせ鏡であった。

 スクリーンに映し出されたモノクロームの映像と、その中で笑顔を見せている若き日の長沼さんの姿を見詰めていると、ひとつの時代が終ったことをあらためて実感する。

知られざる障害者スポーツでの功績

「もうひとつのW杯」での資金調達の苦労について語る生前の長沼さん 【宇都宮徹壱】

 さて、長沼さんの功績、とりわけメキシコ五輪の銅メダルや2002年W杯招致活動については、これまでにも多くの文献が世に出ているから、今さら言及するまでもないだろう。ゆえに以下、02年以降の長沼さんの功績について触れることにしたい。

 幸い私は過去2回、長沼さんにインタビュー取材する機会を得ている。
 最初は4年前の秋。スポーツナビで「トヨタカップを呼んだ男たち」という短期連載があり、第1回トヨタカップが開催された1981年当時、協会の専務理事として陣頭指揮を執っていた思い出を語っていただいた(詳細についてはリンク先を参照のこと)。とはいえ、相手は日本サッカーのレジェンド(伝説)なので、取材前は随分と緊張した。しかし実際にお会いしてみると、驚くほど気さくな方で、しかも言葉の端々からサッカーへの愛情が感じられ、実に気持ちのよいインタビューとなったのをよく覚えている。

 次にお会いしたのは昨年の夏のことで、「もうひとつのW杯」(INAS−FIDサッカー世界選手権大会)の日本代表団長として、前年のドイツ大会について振り返っていただいた。この「もうひとつのW杯」については若干の説明が必要であろう。これは知的障害を持った選手による世界大会で、02年からW杯のホスト国で開催されるようになった。昨年、ドイツ大会での日本代表の活動を追ったドキュメンタリー映画『プライドinブルー』(監督:中村和彦)が公開されているので、ご存じの方もいらっしゃるはずだ。

 このときのインタビューで初めて知ったのだが、長沼さんは障害者スポーツのジャンルでも多大なる尽力をしている。02年大会は大会組織委員会副会長として、3億5000万円もの赤字を埋めるべく、財界の大物たちに面会を求めては頭を下げ続けた(結局、経団連も動いてくれて何とか完済)。続く06年大会は団長として、今度はドイツまでの遠征費2500万円を捻出(ねんしゅつ)するために東奔西走を続け、中村俊輔の寄付やJリーガーのチャリティーオークションなどもあって、何とか目標額に達することができたという。

 02年に71歳で最高顧問となり、日本サッカー界の第一線から退いた長沼さん。その後、てっきり悠々自適の生活を送っているものと思っていたら、これほどまでにエネルギッシュな活動を続けていたのである。それも、普段あまりスポットライトを浴びることのない、障害者スポーツというジャンルで……。

若い世代に伝えたかったこと

東京五輪での代表合宿の集合写真を眺めながら、思い出話は尽きなかった 【宇都宮徹壱】

 長沼さんへの過去2回のインタビュー取材を振り返ってみて、あらためて感じることがある。おそらくこの人は、自身の余生のあり方というものを明確にイメージしていたのではないか――。すなわち、日本サッカー激動の時代の当事者として、歴史の語り部となること。そして、これまで築いてきた知名度と人脈をフル活用して、日の当たらない障害者スポーツの発展に寄与すること。名誉会長職にあった02年までの功績は、確かに偉大なものであった。しかしながら、その後の長沼さんの地道な活動についても、もっと語られてもよいのではないだろうか。

 語り部という点で補足しておくと、最高顧問となってからの長沼さんは、若い世代との交流に、ことのほか積極的であったように思う。私のような若輩者の取材者に対しても、鷹揚(おうよう)かつ真摯に接してくれたし、友人が主催した『プライドinブルー』のプロモーション・イベント(小ぢんまりとしたスポーツバーで開催された)にも喜んで出席していた。それだけではない。スタジアムで見掛けたので声を掛けたら、思いのほか話がはずんだ。あるパーティーで「これからは君たちの世代が、日本のサッカーを創っていかなければならないんだよ」と激励された。たまたまかもしれないが、私の周囲(同業者を除く)では、そういった長沼さんに関する話をよく目耳にした。おそらく、次の世代に伝えたいこと、託したいものが抱えきれないほどあったのではないか。

 4年前のインタビューで、トヨタカップはなぜ日本で開催できたのか、あらためて問うたときに、長沼さんはこのように答えてくれた。

「やはり願望だったんじゃないですか? 希望、願望だったと思いますよ。時期尚早といっていたら、いつまで経ってもできない。2002年の招致活動と同じです。最初は、消極的な意見もたくさんありましたよ。でも、現実的にやってみないと分からないことって、たくさんあるじゃないですか」

 あくなきチャレンジ精神。選手として、監督として、そして協会の要職にあっても、第一線から退いてからも、長沼さんは常にチャレンジを続けて次々と新しい扉をこじ開けていった。その強烈な意志を受け継ぐのは、もちろん容易なことではない。それでも、まずは希望や願望を高く掲げるところから始めてみようではないか。偉大な先人に対する、ささやかな「はなむけ」として。

<了>
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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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