アトレティコ対アトレティック。「兄弟クラブ」の長い歴史を紐解く
共に赤白の縦縞をチームカラーとしていること、またクラブ名が似通っていることは周知の事実ながら、両クラブがそれ以上に深い関係にあることはあまり知られていない。
5年先に生まれたビルバオの「兄」と同じく、マドリーの「弟」も創立当初は青白のシャツを使用していた。両クラブに赤白のチームカラーが定着したのは1911年、クラブ関係者がイングランドから持ち帰ったサウサンプトンFCのユニフォームを両クラブで着用したことがきっかけだ。
その後スペインフットボール界のプロ化が進んだことで、2つのアトレティックは別々のクラブとしての道を歩み始めた。1921年にはビルバオの「兄」がサンマメスでマドリーの「弟」を4ー1で下し、スペイン王者に。ラリーガが発足した1928/29シーズンにはそれぞれ完全に独立したクラブとなり、1929年4月7日にはエスタディオ・メトロポリターノ・デ・マドリーにてハイレベルな公式戦としては史上初となる兄弟対決が実現。この試合はビルバオの「兄」が3ー2で制している。
兄弟喧嘩が感情的になりやすいのと同じく、両クラブはその後何10年にも渡って激戦を繰り返してきた。1950年1月の一戦では、モロッコ生まれのラルビ・ベンバレクらのゴールによりアトレティコが驚異的な粘りを見せ、歴史に残る6ー6の打ち合いを演じた。1982年10月には退場者を出したアトレティックがリーグ優勝を決定づける4ー1の勝利をサンマメスで手にしている。
別々のクラブとなった今も両クラブの関係は続いている。アトレティックのスポーツディレクターだったホセ・マリア・アモルトゥは2006〜11年にかけてアトレティコのアカデミー責任者を務め、コケを筆頭とする若い才能をトップチームに送り込んだ。その後彼はアトレティックに戻り、イケル・ムニアイン、イニャキ・ウィリアムスといったタレントを育てている。
昨夏に引退したラウール・ガルシアは、アトレティコの選手として2007〜15年にかけてラリーガ EA SPORTS で216試合に出場。アトレティックでも2015〜24年にかけて292試合に出場し、両クラブでゴールを記録した数少ない選手となった。
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