先生とプレーヤーの二刀流ができるのも3x3の魅力のひとつ「日本一になるために、目の前の試合に全力を尽くす」ー#3 藤髙宗一郎ー
「公式戦で決めたダンクの感覚が忘れられない」
小学3年生のときに、ミニバスケットボールをやっていた友達に誘われたのがきっかけですね。シンプルにボードにボールをぶつけて、リバウンドを取ってからシュートする、という練習を体験させてもらって『ボールがゴールに入る』という感覚がすごく面白かったんです。コーチからも「身長高いねんからバスケやろう」って言われたのもあって、体験したそのあしでバスケットボールを始めることを決めました。
——そのチームのコーチはすごく厳しかったとか。
バスケットボールというよりも、まずは挨拶と礼儀を大事にする方で、まずはそこからたたき込まれました。実はどちらかというと、小さいときはあまり運動神経も良くなくて鈍くさいほうだったので、最初はドリブルなんてまともにできませんでした。初心者なのでできないのは当たり前なんですけど、できないし怒られるしで、練習がめちゃくちゃ憂鬱になってしまったんです。だから正直に言えば、小学生のときは嫌々バスケットボールをやっていた、という感じでした。
——でも辞めなかったんですよね。
自分で始めたのであれば中途半端に辞めるのは違う、という親の教えもありましたけど、時々練習に来てくれたコーチの存在が大きかったですね。今でも恩師として挙げるならその方の名前を挙げるくらいです。そのコーチはNBAが大好きで、時には自分が持っているビデオを「これ、めっちゃすごいやろ」って言いながら見せてくれました。世界のバスケットボールは見ているだけですごくワクワクしましたし、自分もこんなプレーをしてみたい、と思ったのが、バスケットボールを辞めなかった大きな理由ですね。そのときに見せてもらったビデオのなかでも、アレン・アイバーソン選手とドウェイン・ウェイド選手のプレーは衝撃的でした。その憧れがあったので、今も僕の背番号は3番なんです。
——そのコーチが指導する中学に入学して、バスケットボールを続けたんですよね。
はい。もちろん基本的な部分を大事にしつつも「何でもやってみなさい」と、いろんなプレーにチャレンジさせてくれました。当時の僕は特段プレーがうまかった、というわけではありませんでしたが、自分のやりたいようにプレーさせてくれて、徐々に『あれができた』『これができた』という成功体験がどんどん増えていきました。身体も成長していきますし、それに伴ってできるプレーもどんどん増えていくわけですから、本当に楽しかったですね。小学生のときは人間的に大事な部分を、中学生では技術面を伸ばしてくれる指導者に出会えて幸せ者です。
——藤髙選手の得意なダンクシュートができるようになったのも中学生のときだったとか。
2年生のときから、どうしてもダンクシュートがしたくて毎日練習終わりにリングジャンプをやり始めました。少しずつジャンプ力がついていったのと、身長が伸びたのもあって、練習中でしたけど中学3年生のときに初めてダンクができました。あのときはうれしかったですね!練習でできたのだから、次は試合でダンクを決めるという目標ができて、より一層バスケットボールが楽しくなりました。
——ドライブとダンクを使った、藤髙選手のプレースタイルの始まりですね。
そこからはドライブのキレを増すための研究をして、いろいろ練習したり試したりしてきました。なかなか試合で決められなかったんですけど、高校2年生の公式戦で、初めてドライブからダンクを決めることができました。もう全身鳥肌が立ったのを覚えていますし、あの快感は今も忘れられません。
「努力し続けることの大切さ」
とにかくバスケットボールのことばかり考えてやっていました。今だったら怒られるでしょうけど、僕、ドリブルしながら登下校していたんですよ。練習後は近くの公園のランニングコースを走ったあと、好きな音楽を聴きながらまたドリブルの練習をする。今振り返ると、中高時代はずっとボールを触っていました。このときの経験があったからこそ今があるんだと思います。
——しかしながら、関西大学に進学後にはスランプに陥ってしまったとか。
高校時代のチームはどちらかというとワンマンチームだったので、自分でボールを持ったら自分で行く、という感じでした。そういうプレーが認められて大学に入ったはずなんですが、その時のキャプテンに『お前がひとりでやらなくても勝てるチームなんだよ』と言われたんです。今考えれば、仲間をもっと頼れ、というプラスの意味でのアドバイスだったと思うんですが、当時の僕はこれを「俺って必要とされてないんかな」とマイナスに捉えてしまったんです。そこからプレーに迷いが出るようになって、自分の良さが一気に消えてしまった。試合に出られない時期も続きましたし、さらにジョーンズ骨折までしてしまい、まさにどん底でした。
——どうやってそのスランプから脱出されたのですか。
大学ではみんな身体が大きいし力も強い。元々身体の線も細かったのもあって、入学してすぐの試合では当たり負けすることが多かったんです。そこで、故障中にフィジカルをめちゃくちゃ鍛えました。先輩からも「お前の身体、見るたびに大きくなってるな」と言われたくらいです。故障から復帰したときには、当たり負けしないくらいフィジカルが強くなっていたので、徐々に自分のプレーに自信を取り戻すことができました。このときの挫折と故障が、自分を見つめ直すきっかけになりましたね。
——大学を卒業すると、日立サンロッカーズ東京(現サンロッカーズ渋谷)に加入されました。
いろいろなご縁があってプロに行くことができましたけど、1年目は本当に辛かったです。今まで自分が磨き挙げてきたリバウンドやドライブなど何もかもが通用しなくて。大きかったのは、ディフェンスができなかったことです。
——ディフェンスですか。
プレシーズンでは活躍できたんですけど、外のシュートが入らないってバレたんですね(笑)。するとドライブをさせてもらえなくなって、オフェンスで活躍できなくなっていきました。さらに、元々苦手だったんですけど、ディフェンスができないことで試合に出してもらえなくなりました。もう1年目から引退を考えてしまうくらい落ち込みました。でもせっかく入ったプロの世界ですから、1年なんかで辞めたくない。そこでもう一度自分のプレーを見直して、足りないところを徹底的に鍛えました。ひとつはディフェンス。もうひとつはスカウティングでした。相手をじっくり研究して、頭を使って練習する。この繰り返しです。ディフェンスもイチからやり直して、とにかくめちゃくちゃ頑張りました。
——今では苦手だったと思えないほど、ディフェンスでも高い評価を受けていらっしゃいます。10年間に及ぶプロ生活で特に印象に残ったことや、学んだことはありますか。
たくさんありますけど……いちばんは努力し続けることの大切さを学びました。毎日毎日、当たり前の努力を積み重ねることだけが、結果を出す方法です。自分が10年間プロでプレーできたのは、小さな成功体験を積み重ねることができたから。この成功体験は、努力の積み重ねなしには成り立ちません。プロの選手が毎日練習するのは当然で、追加の自主練習も当たり前にやります。コンディションを整えることだって、みんな当たり前にやっています。そのなかで結果を出すには、やはり努力を続けるしかないんです。努力が結果に結びつくかどうかは分からないけれど、成功した人、結果を出した人は、やっぱりみんな必ず努力しています。だから、努力は“続けること”が何より大切なのだと思います。正直に言えば、しんどかったことのほうが多かった10年でしたけど、自分にとって必要な良い経験をさせてもらえた10年だったと思います。
「チームとしては日本一、個人としては日本代表を目指す」
ちょうどスランプで悩んでいた大学1年生のときに、SOMECITYでプレーする機会をいただきました。そのときに3人制の面白さを初めて知って以来、ずっと3x3は面白いなあ、という感覚は頭の片隅にありました。そこからしばらく3x3からは離れていましたが、2018年に突然でしたけど、日本代表の合宿に呼ばれたんです。日本代表になれるチャンスなんてそうそうありませんから、すぐに飛びつきました。それがきっかけで、また3x3を本格的に始めることになりました。
——藤髙選手にとって、3x3の面白さや魅力はどういうところですか。
1対1の面白さと重要度の高さ、試合展開の速さです。3x3は攻撃時間が12秒しかありませんから、試合展開がスピーディー。チームプレーもありますが、攻撃時間がない分、1対1になる場面が5人制より多いです。僕の強みを存分に生かしてプレーで、チームの勝利に貢献できるのが魅力ですね。それに、5人制だとベンチに入っても試合に出られるかどうか分かりませんが、3x3ではエントリーされたらずっとコートに立っています。だから俺バスケットボールやってるな!って気持ちになるんですよ。プレーし続けないといけないので身体はしんどいんですけど、とにかく楽しいというのが僕の印象です。
——確かに3x3の試合は、バスケットボールが大好きで楽しんでいる人たちがプレーしている、という雰囲気がありますよね。
本当にその通りです。ずっと走り回って身体はきつそうですけど、顔は笑っているというか、楽しそうな選手が多いですよね。もちろん、僕もそうですよ。
——3x3で選手としてプレーされながら、関西で学校の先生もされていらっしゃいます。関西を拠点に活動されている藤髙選手にとって、車は欠かせない移動手段だと思います。
そうですね、今も車で通勤しています。
——車の運転は好きですか?
そうですね。嫌なことがあったら、音量を大きめにして好きな音楽をかけながら、特に行き先を決めずドライブするのを定番にしているくらいです。通勤時の運転している間に考え事をしたり、仕事帰りには1日の振り返りをしてみたり。運転しているときは、ひとりで誰にも邪魔されずにリフレッシュできる時間です。
——藤髙選手が普段から車移動しているということで、ユニフォームスポンサー企業でもあるスマートドライブさんのデバイスを使用して運転していただきましたが、いかがでしたか?
このデバイスでは、自分の運転に点数をつけてくれるんですけど、ゲーム感覚で面白かったですね。当たり前ですけど、一時停止のところなんかは普段よりしっかり意識しますし、ブレーキの踏み方が優しくなったり、アクセルも急に踏まないようにしたりとか。デバイスをつけて運転が点数化されることによって、自分の運転技術を見つめ直す良いきっかけになりました。
——今回、このスマートドライブさんのデバイスを使用しながら動画撮影もされました。
撮影しながらの運転は緊張しましたけど、楽しかったですよ。ぜひいろんな人にもデバイスをつけてのドライブにチャレンジしてもらいたいですね! 動画も恥ずかしいですけど、ぜひ見てみてくださいね。
※コラボ動画は近日中にに公開予定です。
これは5人制と3人制の違いというよりは、チームの違いかな、と思います。DIMEはスポンサー企業さんとの関係性を大事にされていて、すごく距離が近くて、人と人の関係が築けていると感じています。スポンサー企業さんに応援したいと思ってもらうためには、試合で結果を残すことも大切です。でもそれだけじゃなく、選手一人ひとりの人間性もそうですし、スポンサー企業さんと選手個々との関係性も良くないといけないと思います。そういう意味でも、DIMEは人と人とのつながりのなかで、スポンサー企業さんとの関係性を大事にしているな、と感じます。
——多くのプロチームで活躍されてきた藤髙選手がそうおっしゃってくださるのは、チームとしてすごく心強いです。
3x3というよりは、DIMEというチームの良い部分だと僕は思っています。
——ありがとうございます。では最後に2つだけ質問させてください。まずは、藤髙選手の次のステップに向けた目標を聞かせてください。
そうですね、国内の目標を言えば、まだ日本一になったことがないので、日本選手権でもジャパンプレミアでも、日本一になることを目標にしています。まずは目の前の試合を一つひとつ頑張って日本一を狙う。そして、個人としては日本代表も目指してプレーしていきたいと思っています。
——藤髙選手からTOKYO DIMEのファンの皆さんにメッセージをお願いします。
ありがとうございます、という言葉をファンの皆さんには伝えたいです。Bリーグを引退して、メインの仕事は学校の先生でありながらも、TOKYO DIMEの一員としてプレーする僕を応援してくれる。そんなファンの皆さんには、感謝の言葉しかありません。今後も変わらず、いち選手として、いち人として、藤髙宗一郎の応援をしてもらいたいですし、応援してもらえる選手でいられるように頑張ります!
——ありがとうございました。先生業との両立は大変かもしれませんが、これからも応援しています!
SUPER PREMIER
大会日時および開催地
Round.1:2025年2月22-23日 Canadian International School @VIETNAM
Round.2:2025年3月1-2日 Mega Bangna - Food Qalk Plaza @THAILAND
FINAL:2025年3月23日 FLAT HACHINOHE @青森県
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