【完全記録・後編】総合馬術〝初老ジャパン〟最後の挑戦

日本馬術連盟
チーム・協会

【©日本馬術連盟】

天国から地獄へ……

 パリオリンピック総合馬術競技で団体銅メダルを獲得した“初老ジャパン”。大岩義明、北島隆三、戸本一真、そしてリザーブの田中利幸。4人の戦いはいよいよ佳境に入った。
 
 総合馬術のハイライトであり最大の難関でもあるクロスカントリーを終えて、初老ジャパンは暫定3位につけていた。メダル圏内のポジションで最終日を迎えることができるこの状況に、選手はもちろん監督やコーチ、グルームを含め、チーム全体の士気はさらに高まった。日本にとってまたとないチャンスだ。「メダルを獲る」。ずっと目指してきたことが現実になろうとしていた。
 ところが、だ。好事魔多し。北島のセカティンカJRAと戸本のヴィンシーJRAの2頭に異変が起きた。肢を痛めたようだ。クロスカントリーを走った直後は興奮状態のため、普段通りに元気に歩いていたのだが、厩舎に戻って落ち着いてみると、明らかに歩様がおかしかった。チームの空気は一変した。馬術競技で最優先されるのは馬のウェルフェア。競技参加にふさわしい、フィットした状態でなければ出場は認められない。翌朝には第四の競技とも言われるホースインスペクションが行われる。ホースインスペクションは馬の状態を審判員とオフィシャル獣医師が確認するもので、競技開始前日に第1回が、そして最終日の朝に第2回が実施される。インスペクションに合格すれば競技に出場できるが、不合格となってしまったらその後の競技には出られず、もちろん成績もつかない。ハードなクロスカントリー走行の翌日は、怪我をしてしまったり疲労していたりでコンディションが悪い馬も少なくない。そのため、第2回インスペクションに向けて、陣営は全力で馬をケアするのだ。
 ヴィンシーJRAの様子を確認した戸本は絶望的だと感じていた。地面に着くことができない肢があり、翌朝までに普通に歩けるようになるとはとても思えなかった。しかし、獣医師による検査で、骨や腱を痛めたのではなく、蹄を怪我していることがわかった。人間で言えば、足に血豆ができたようなものだった。蹄の専門家である装蹄師(そうていし)に頼んでパットを入れてもらったところ、奇跡的に歩様が良くなったため、あとは翌朝に向けてひたすらケアして回復に努めた。
 もう1頭のセカティンカJRAは競技馬としてはやや高齢の17歳。クロスカントリーを全力で走れば、その影響が体に出やすいことはわかっていた。グルームは厩舎地区がクローズするぎりぎりまで肢を冷やしたり、マッサージしたりしてケアし、翌朝も早い時間からできる限りのことをしてインスペクションに備えた。
 TEAM JAPANとしてできることは全てした。あとは運を天に任せるしかない。

まだ望みはある。絶対に諦めない

 インスペクションには4頭で臨んだ。不合格の馬がいた場合はリザーブと交代することになるが、その馬もインスペクションに合格している必要があるからだ。最初にインスペクションに臨んだのは北島&セカティンカJRA。馬を曳いて速歩(はやあし:タッタッタッタと歩く)をさせて、その歩様がチェックされる。北島が曳き終えると「ホールディング」とアナウンスされた。これは、馬の競技参加適性に何らかの疑義があるため、ホールディングボックスというところに送られて、ここでホールディング担当獣医師による詳しい検査を受けることを意味している。会場は少しざわついたが、日本としては想定の範囲内だった。2頭目は大岩&MGHグラフトンストリート。特に不安はなかったこの馬も「ホールディング」とコールされた。2頭続けてのホールディングに会場のざわつきが大きくなった。そして戸本&ヴィンシーJRAだ。戸本は緊張感マックスの表情で馬を曳いていたが、「アクセプティド(Accepted:合格)」とコールされた。そして最後はリザーブの田中&ジェファーソンJRA。もちろん合格した。
 

緊張した面持ちでヴィンシーJRAを曳く戸本 【©日本馬術連盟】

 ホールディングとなった馬は、詳しい検査を受けた後に再びインスペクションに臨むことができ、ここで最終判断が下される。ここで北島は、再インスペクションの棄権を決断した。北島&セカティンカJRAがチームからいなくなることで順位が下がり、メダルから大きく遠のくことはわかっていた。それでも、再インスペクションで合格するのは難しいだろうという判断と、何より大切なパートナーである馬にこれ以上無理をさせることはできなかったのだ。MGHグラフトンストリートは再インスペクションに合格。ここで北島&セカティンカJRAと田中&ジェファーソンJRAの交代が決まった。

 実はこの時点で、選手や監督は大きな減点が加えられると考えていた。というのは、東京オリンピックではクロスカントリーで大岩が失権(走行中に競技を終えなければならない)し、リザーブだった北島が交代して最終種目の障害馬術に出たのだが、その時はクロスカントリーにおける失権点200と交代のための減点20、合わせて減点220を負ったのだ。しかし今回はクロスカントリーは完走していたため、状況が違った。大会オフィシャルに確認したところ、加算される減点は交代のための20点のみだとわかった。
 クロスカントリー終了時点で日本の減点は93.8だったので、20点が加わると113.8。5位に後退したが、3位のスイス(減点102.4)、4位のベルギー(減点111.0)との差はそれほど開いておらず、可能性は残っていた。ただ、減点法であるため、自力で逆転することはできない。TEAM JAPANができるのはこれ以上減点を増やさないことだった。どん底に落ちたと思ったが、まだ望みはあった。諦めるわけにはいかない。

 障害馬術は競技開始の数十分前に、選手がコースを徒歩で確認する“下見”の時間が設けられている。インスペクションを棄権した北島は責任を感じていたが、一人で落ち込んでいる場合ではない。コースの下見をしてメンバーにアドバイスするなど、全力でチームをサポートした。

コースを下見する北島(写真中央左)と田中(右) 【©日本馬術連盟】

 障害馬術の出番は、下位のチームから先に各チームの中で最も減点が多い人馬が走り、それが一巡すると、各チームの中で2番目の減点が多い人馬が走る……という順番になる。つまり、日本→ベルギー→スイスという順だ。
 出場が決まった田中は「どのタイミングでも交代できるように準備はしていましたが、まだメダルを狙える位置にいると知って、その責任の重さに鳥肌が立ちました。トイレに30分くらいこもりました」と振り返った。バーは絶対に落とせない。一つ一つの障害物を丁寧に飛越して落下なしでフィニッシュ、4秒のタイムオーバーで減点1.6が加算されてチーム減点は115.4となった。ベルギーは1落下(減点4)して減点115.0、スイスは2落下(減点8)とタイムオーバーがあって減点111.2、一巡目を終えて差が縮まった。

落下なくゴールした田中&ジェファーソンJRA 【©日本馬術連盟】

 日本の二番手は戸本。インスペクションに合格さえすれば、障害馬術は必ず減点0でゴールできると信じていた。心配していたインスペクションに合格して最終種目の舞台に立てたのだ、ここは行くしかない。愛馬を信じて臨み、見事にクリアラウンド、減点を増やすことなく走行を終えた。ベルギーはここでも1落下(減点4)して減点119.0、スイスは3落下(減点12)とタイムオーバーで減点124.4、日本はここで3位に戻った。

走行を終えてヴィンシーJRAを労う戸本 【©日本馬術連盟】

 いよいよ三巡目。日本とベルギーの差は3.6点だ。大岩がクリアラウンドすれば日本のメダルが決まる。しかし、1つでも落下すれば再び逆転を許してしまう状況だ。大岩の走行を見守るメンバーは全員それを知っていたが、大岩には伝えていなかった。張りつめた空気の中、大岩&MGHグラフトンストリートが障害物を飛越していく。大岩の「絶対にノーミスでゴールする」という気迫が伝わってくる。落下はなく、1秒のタイムオーバーで走り切って日本の減点は115.8。
フィニッシュの瞬間、キスアンドクライで走行を見守っていたチームメンバーや監督、コーチ、グルームの喜びが爆発した。そんな中、戸本だけがその歓喜の輪に乗り遅れたように見えた。「大岩さんがミスなくゴールしたらメダルだということはわかっていたのですが、それが現実になったということが実感できなくて、本当に自分たちがメダルを獲ったんだろうか?という感じで、それが『やった!』という感情に変わるまでに数十秒かかりました」と振り返った。
 状況を知らずに走った大岩は、自身が納得のいく走行ができたことでガッツポーズを見せていたが、退場間際に戸本から「メダルが獲れた」と伝えられて涙を見せた。

戸本からメダル獲得を知らされた大岩 【©日本馬術連盟】

 北島は、田中、戸本、大岩の走行を落ち着いて見ていることができず、キスアンドクライの後ろの方でうろうろしていたと言う。「責任を感じていたので、本当にありがとうという気持ちでした。これまでずっと目指してきたオリンピックのメダルが本当に獲れたのか、と僕も泣いちゃいました」
田中もキスアンドクライで飛び上がって喜んだ。「嬉しかったですし、大岩さんが最終障害を飛越した時にはこみ上げるものがありました」

最終日に人馬の交代をして減点20を負ってなお、そこから逆転できたのはTEAM JAPANの誰もが諦めなかったからだ。選手、監督、コーチ、グルーム、チーム獣医師。それぞれが自身の役割を全うし、ベストを尽くした。その積み重ねが奇跡を生んだ。

もう一つの奇跡、4個の銅メダル

 奇跡はそれだけではなかった。優勝したイギリス、2位のフランスはそれぞれ3人の選手と3頭の馬で表彰式に姿を見せたが、日本は4人が表彰台に上がった。本来、競技に出場しないリザーブ選手は表彰対象にはならないし、逆にリザーブと交代するような状況になったチームが上位に入賞してメダルを授与されることはまずあり得ない。しかし、そのあり得ないことをTEAM JAPANがやってのけたのだ。
 セカティンカJRAは肢を痛めていたので表彰式には参加させず、北島は徒歩だったが、4人揃って入場すると会場は大いに沸いた。銅メダルも馬へのリボンも厩舎掛け(厩舎に飾るための記念品)も4つずつ贈られた。馬術競技の表彰式は、入賞人馬がアリーナを大きくまわるビクトリーラップでフィナーレを迎える。この時も北島は先頭を走って会場を盛り上げた。

表彰式に臨むTEAM JAPANメンバー 【©日本馬術連盟】

 メダルを獲得できたことはもちろん嬉しい。でも、何より嬉しいのは“4人揃って”もらえたことだ。2018年の世界選手権で初めてチームを組んだ大岩、北島、田中、戸本は、常にこの4人で戦ってきた。東京オリンピックで思っていたような結果を出せなかったり、パリオリンピックの団体出場枠を二度も逃したりと、苦しいこと悔しいことを一緒に経験してきたこの4人で挑む最後の大会がパリオリンピックだった。たらればの話だが、もし交代がなければ団体銀メダルを獲得していたかもしれない。しかし、“3人でもらう銀メダル”ではなく、“4人でもらう銅メダル”こそが、総合馬術TEAM JAPANの誇りなのだ。
 この先、二度とないかもしれない“4個のメダルの奇跡”を見せてくれた初老ジャパンは、最高、最強のチームだった。

【日本馬術連盟 北野あづさ】 

4人揃って表彰台に上がったTEAM JAPAN (左から)北島、大岩、田中、戸本 【©日本馬術連盟】

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公益社団法人日本馬術連盟は、日本における馬術統括団体です。その事業は、馬術の普及・振興に始まり、全日本大会の開催、国際大会への派遣、選手強化、競技会規則の制定、資格の認定等、多岐にわたります。

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