「みんな同じ一人の生徒」リーチマイケルの原点にあった“人とのつながり” 高校時代を支えた恩師との絆

チーム・協会

【key visual by Yuito Kokubu】

多様なルーツをもつ選手が共にプレーするというイメージが強いラグビー。育った文化も背景も異なる選手たちが同じ目標に向かっていく姿は、多様性ある社会の象徴的なものとして語られることが多い。彼らは、競技に取り組む中でどのように「チーム」となっていくのだろうか。

日本ラグビーの顔として長く第一線で活躍し続けているリーチマイケル選手。その土台の一つとも言えるのが、15歳で単身来日して過ごした北海道・札幌山の手高校時代だ。そこで出会った恩師の佐藤幹夫先生をはじめ、ラグビー部の仲間たち、周囲の多くの人たちとのつながりが今のリーチ選手を育て、つくり上げてきた。
人生のターニングポイントとなった10代のこの時期、佐藤先生は留学生のリーチ選手にどのように接し、リーチ選手はどのような教えを受けたのか。リーチ選手、佐藤先生がオンラインで対談し、それぞれの当時を振り返ってもらった。

ニュージーランドから偶然届いた1通のFAX

【photo by Shugo Takemi】

リーチマイケル選手の人生を変えたきっかけ――それはもしかすると1通のFAXだったのかもしれない。今からおよそ20年前、母校・札幌山の手高校の恩師であり、現在は同校ラグビー部の総監督を務める佐藤幹夫先生のもとにあるメッセージが届いていた。送信元はニュージーランド、内容は留学プログラムに関する案内状だった。

佐藤先生(以下、佐藤):2000年に札幌山の手高校は花園(全国高等学校ラグビーフットボール大会)に出場したのですが、次は全国で1勝できるチームを作りたいと思っていたんです。ちょうどその時にニュージーランドにいる知り合いからFAXが届いて『留学プログラムを始めたので山の手高校も参加しませんか?』と。それがきっかけでマイケルがいたセント・ビーズ・カレッジと交流が始まり、交換留学生を募集したところ、最初に手を挙げてくれたのがマイケルでした。本当、偶然でしたね。もし、そのFAXが私のもとに来ていなかったら、マイケルはここにいなかったかもしれない。

リーチ選手(以下、リーチ):それは初めて聞きました。

佐藤:FAXを送ってくれた人は北海道にニュージーランドのラグビーを伝えてくれた人。ニュージーランド人なのですが、札幌で何年かプレーした後、札幌の人と結婚してクライストチャーチに帰った。そして、その人の息子がマイケルと同級生だったんです。

2004年6月、15歳のマイケル少年は単身来日し、札幌山の手高校に留学。お互いの初対面の印象は今でもよく覚えている。

佐藤:最初は本当にラグビーできるのかなというくらいヒョロッとしていてね、可愛い顔をしていましたよ(笑)。

リーチ:幹夫先生は笑顔がすごく素敵で温かい雰囲気がありました。もう一人の黒田(弘則)先生はすごく怖かったです(笑)。

特別扱いはしない、みんな同じ一人の生徒

【photo by Shugo Takemi】

札幌山の手高校にとって初めての海外からの留学生であり、佐藤先生も外国の生徒を迎えるのは初めて。しかも、ラグビー部を強くするために招き入れた生徒だったが、佐藤先生はリーチ選手を特別扱いすることはなかった。日本人生徒と区別することなく、みんなと同じ一人のラグビー部員として接した。

佐藤:みんなと同じように接しようと思っていましたから、受け入れの準備は特に何もしませんでした。ラグビー部のみんなにも『よろしく頼むな。仲間に入れてくれ』と言ったくらい。こうしろ、ああしろとは特に言わなかったですね。

【photo by Shugo Takemi】

リーチ:本当に特別扱いがなくて、僕にとってはそれが一番良かったですね。ほかの1年生と同じようにグラウンド整備、部室掃除、先輩のジャージの洗濯とかやっていました。

佐藤:昔の写真を見ていたら、マイケルがジャージを運んでいる写真を見つけてね。ああ、マイケルも荷物運びやっていたんだなと思い出しましたよ(笑)。

リーチ:はい、それは忘れちゃいけないです(笑)。

ラグビーの本場・ニュージーランドからの留学生だからといって、誰からも気を遣われて特別扱いされることもない。みんなと同じように泥にまみれて全力で練習し、率先して雑用もこなし、そして本当の仲間になる。佐藤先生とラグビー部員たちが作ったそんな環境がリーチ選手にとっては心地よかった。それはラグビーだけでなく、まだまだ不慣れな日本での生活や学校の勉強でも同じ。何事にも全力で取り組むリーチ選手の姿を見て、感化された生徒も多かったという。

北海道・札幌山の手高校時代のリーチ選手  【写真提供:佐藤幹夫】

佐藤:マイケルが頑張ればみんなも頑張る、そんな雰囲気がありましたね。当時は、けっこうサボる生徒も多かった。でも、マイケルを見て『俺も頑張らないといけない』と思った生徒は多かったと思いますね

生徒だけではない。佐藤先生自身にとってもリーチ選手をきっかけにニュージーランドとの交流が生まれ、ラグビーを通して触れ合う中で得られた経験はその後の教育方針をガラリと変えるきっかけにもなった。

佐藤:セント・ビーズ・カレッジと姉妹校提携を結んで、毎年修学旅行の代わりに交流試合をするんです。そこで私もニュージーランドのラグビーを学ぶのですが、コーチング、子どもに対する接し方がすごく勉強になりますね。子どもたち自身に、答えを導き出してもらうんです。それまで日本では『答えはこうだ』という教育でしたから、それがすごく変わっていきましたね。ええ、自分自身が一番変わったかなと思います。

人や仲間、その“つながり”を大事にすること

高校日本代表選手のジャージを手にするリーチ選手と佐藤先生  【写真提供:佐藤幹夫】

リーチ選手の後も、札幌山の手高校では定期的に留学生を受け入れてきた。佐藤先生は「誰でも受け入れる」ことをモットーに、日本人生徒も留学生も「同じ一人の生徒」として区別なく接し続けている。

佐藤:周りのみんなと同じように挨拶をする、遅刻しないなど生活面を第一に考えて接しています。それはマイケルの時と変わらない。そして、ラグビーを通じていい大人に育てる。それが一番ですね。やっぱりワンフォーオール、オールフォーワン、ノーサイドの精神などラグビーには人を思いやるという良いところがいっぱいある。それらを少しずつ学んでいったら、いい大人になると思っているんです。

リーチ:幹夫先生の教えの中では『人を大事にする、仲間を大事にする』ということが一番好きでしたね。高校2年生になったころ、ニュージーランドの僕の家が火事になった。お父さんが20年かけて作った家でした。そうしたら幹夫先生が北海道のラグビー関係者に向けて募金活動をしてくれて、結構な金額を内緒で送ってくれたんです。親から電話がきて『幹夫先生が寄付してくれた』と。一生、恩返ししないといけない。ラグビー界は何か困った時には誰かしら手伝ってくれるし、どこかでつながっている。その“つながり”を大事にすることを教えてくれました。

人と人とのつながり、その大切さ――これはリーチ選手が日本で学んだ最も大事なことなのかもしれない。多くの人とつながり、その温かさに触れることで、10代の多感な時期を過ごした遠い異国の地でも疎外感や不便を感じることなく、大好きなラグビーに全力を傾け、のびのびと生活することができた。また、札幌時代の思い出はラグビーだけにとどまらない。どんどんと話題が脱線していくくらい、実に楽しそうに2人は当時の思い出話に花を咲かせた。

【photo by Shugo Takemi】

佐藤:大雪が降った後なんかは、家の雪下ろしを手伝ってもらったことなんかもありましたね。

リーチ:クライストチャーチはあまり雪が降らないから雪下ろしは面白い体験でした。雪下ろしの後に先生の家でジンギスカン、焼肉、しゃぶしゃぶを食べたのが格別に美味しかった。

佐藤:いつも夏合宿をやっているニセコで冬にスキーをしたのも思い出です。リフトで頂上まで行って、マイケルは直滑降しかできないから思い切り飛ばして、思い切り転んでいましたね(笑)。

リーチ:それまでスキーの経験はゼロでした。速攻でコケて(笑)、本当にまっすぐしか降りられないから物凄いスピードでした。楽しい思い出はたくさんありますね。でも、やっぱり一番はご飯かな。ファミリーレストランやどこに行ってもいつもご飯は大盛り、400gのハンバーグ2枚とかトンカツはダブルとか。僕は体が小さかったから、大きくなろうと思ってたくさんご飯を食べながら色々なことをしゃべったことが思い出です。

佐藤:高校2年生の終わりぐらいにヒゲも生えてきて、そしたら急に体もデカくなってきて。こりゃあ、もうかなわないなと思いましたよ。

リーチ:高校時代は幹夫先生の背中をずっと見てきました。恩返しすることはまだまだたくさんあるなと思いますね。ホームステイ先の寿司屋さんのお父さんもそうでしたし、周りにはいい人がたくさんいて本当に良かったなと思います。

アジアラグビーの発展、佐藤先生も「協力したい」

【photo by Shugo Takemi】

佐藤先生をはじめ周囲の人たちとのつながりを噛みしめながら札幌山の手高校を卒業したリーチ選手は、日本でラグビーを続けることを決断。大学2年生時から日本代表に選出され、さらには2014年から21年まで代表キャプテンに就任、ワールドカップには合計4度出場するなど、今や押しも押されもせぬ“日本ラグビーの顔”にまでステップアップした。
そして、まだまだ現役第一線での活躍を誓う一方、将来を見据えたもう一つの夢がある。それがアジアラグビーの発展・強化だ。そのプロジェクトの一つとして、自身と同じようにアジアの未来ある若者にもラグビーを通して日本で大きな夢をつかんでもらいたいという想いから、2019年初頭にモンゴルでセレクションを実施。そこで“発掘”したダバジャブ・ノロブサマブー(通称ノロブ)選手を札幌山の手高校と佐藤先生につないだ。


リーチ:幹夫先生はいつも協力してくれました。ノロブくんのことも電話一本で相談して留学をOKしてもらいました。

佐藤:ノロブは体もデカいし、体幹も強いし、将来凄い選手になると思った。でも、もともとケガをしていた箇所が骨髄炎になって、最低2、3年はラグビーできないと言われたんです。それでもラグビーのつながりからお医者さんが見つかり、手術をしたら3カ月で復帰できた。これも運命なのか、奇跡だなと思いました。その後は高校日本代表候補まで選ばれたし、大病を乗り越えてよく頑張ったなと思います。

【photo by Shugo Takemi】

リーチ:ノロブくんとは最初まったく会話ができなかったけど、今は全部日本語で話しています。幹夫先生の教え方が良かったと思いますね。彼は本当に真面目だし、さっき奇跡と言っていましたけど、僕がそうだったように、チャンスがあればそれをモノにする選手だと思います。

将来マイケルとノロブが同じ試合をするのが楽しみ、と笑顔を見せる一方で佐藤先生はリーチ選手の「アジアラグビーの発展」についても太鼓判を押している。壮大な夢を描く教え子が頼もしい――そんな表情でエールを送り、またリーチ選手も感謝の言葉を返した。

佐藤:アジアに目を向けたのはすごくいいこと。身近にライバルがいれば日本はもっと強くなるし、そのために自分でできることを探す。そう考えて行動できる人はなかなかいないですから、本当に素晴らしいですよ。アジアラグビーが盛んになって、いろいろな国が強くなったらもっとラグビーが面白くなる。先頭に立って引っ張っていくのが日本の使命だと思うし、マイケルやノロブと同じように人のつながりで日本に来たいという子がどんどん出て、仲間もどんどん広がって、これからプロジェクトはもっと大きくなっていくと思いますよ。私も何か協力できることあればしたいなと思っています。

リーチ:幹夫先生にはいつも感謝しています。15歳で初めて日本に来て、夢を持たせてくれて、ずっと応援してくれて、ワールドカップにも3回来てくれました。本当にいつも感謝しています。これからも恩返しの精神で続けたいなと思います。

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終始リラックスした表情を浮かべながら会話を楽しんでいたリーチ選手と佐藤先生。国籍や人種、民族の壁など何もない、みんな同じ仲間としてつながっている――ラグビーを通して互いを育んだ師弟の対談、その言葉の数々は、偉大なプレーヤーとして、そして誰からも愛される人間リーチマイケルの原点に触れるものだった。
文化や背景も違っても、互いに理解しあうのに必要なのは「特別扱い」ではなく、相手を思いやり大事にすること。佐藤先生とリーチ選手の絆は、私たちに大きなヒントを与えてくれているのかもしれない。


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text by Atsuhiro Morinaga(Adventurous)
edited by Adventurous
key visual by Yuito Kokubu
photo by Shugo Takemi

※本記事はパラサポWEBに6月に掲載されたものです。
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