早稲田スポーツ新聞会 新歓号特集『岡田彰布監督独占インタビュー』

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【早稲田スポーツ新聞会】取材、写真 小島大典、近藤翔太、濵嶋彩加

 昨年のプロ野球・日本シリーズ。阪神タイガースを38年ぶり2度目の日本一に導いた早大野球部OB・岡田彰布監督は、5度宙を舞った。選手としても日本一を経験し、球界の名将として名高い岡田。早大野球部を志した少年時代、数々の輝かしい記録を残した早大時代を経て「大先輩」が新入生に伝えたいメッセージとは――。

インタビューに答える岡田氏 【早稲田スポーツ新聞会】

――野球を始めたきっかけを教えてください

岡田 自分の親父がタイガースを応援していて、幼稚園ぐらいから甲子園に連れてこられてましたね。家の環境というか周りが野球一色だったので自然と(野球を始めてました)。

――憧れの選手はいらっしゃいましたか

岡田 1番最初につけたのは11番だったんです、背番号ね。(背番号11は阪神タイガースの)村山さん(村山実氏)ですね。みんな(背番号)1とか3が多かったんだけど、(自分は)11だったんです。最初のチームの背番号が。

――背番号1や3が多かったのは誰の影響ですか

岡田 長嶋さん(長嶋茂雄氏)、王さん(王貞治氏)の影響でしょう。あの時は(売っていたのは)巨人の帽子がほとんどだったんです。あまり阪神の帽子が売ってなかった(笑)。関西でも(笑)。それぐらい巨人は強かったし、日本全国ファンが多かったけど、僕は家が生粋のタイガースファンでしたから。それで村山実さんの11にしたんです。

――北陽高時代は3年時に大阪府大会の決勝まで進出されましたが、高卒でプロ入りの話はありましたか

岡田 もう早稲田に行くて決めてたので。(早大に進学するために)北陽高行ったんです。もともと中学校は明星中で早稲田に行くために行きました。野球では明星中から早稲田て多かったんです、先輩は。少し問題があって、北陽高に兄貴がいてる(ポジションが)セカンドのもの(同級生)と、2人で北陽高行ったんだけど、行った時から早稲田を受けるっていうのを北陽高にも言ってたんです。そういう(高卒プロ入りの話がある)感じはほとんどなかったけど 巨人は来てたんですね、スカウトは。阪神とかも。阪神にはもう言ってあったから、早稲田に行くって。

――数ある大学の中から、なぜ早大に進学したいと思いましたか

岡田 小学校の時に早慶戦を見たからですね、NHKで。それで白の角帽と襟のユニフォームに憧れて。小学校の時から早稲田って決めてたんです。

――一般入試で早大に入学されましたが、野球と受験勉強の両立は大変でしたか

岡田 中学校の時もそうだったけど、高校も週2回、家庭教師で5時半には(練習を)上がるっていう条件で行ったんです。その代わりなんとか早稲田に受かるみたいな。だから、1年の時から3年生練習してんのに、はよ帰って(笑)。それを北陽高は了解してくれたんです。野球部もそれを受け入れてくれて。北陽高は(野球部の卒業生が)法大しか行ってなかった、 六大学(東京六大学野球連盟)の中では。早稲田に行ってなかったので。そういう意味で学校も(早大の受験に)協力してくれたんです。

――野球部にはセレクションで入部された

岡田 セレクションは(高校3年時の)8月にやっただけだから、セレクションでは(早大に)受からないんです。8月だから甲子園大会中で、甲子園に出ない人しか行ってないから、全体のセレクションではないですね。確率的にはまだ(早大に合格するか)分からない状況だったので。関西の近大とか大商大なんかは(早大の)入試すべった(不合格になった)後でも来てほしいって言われとったんです(笑)。すべった後でいい、4月でもええって言われて、はっきり言うてね(笑)。でも、私はすべったら浪人するからとは言ってあったから、 学校(北陽高)にもですね。

――何が何でも早大に行きたかった

岡田 そうですね、1年ぐらいは浪人ええかなと思ってましたけどね。2年は(浪人するのは)きついなと思いました、野球部だからね。

――六大学でのデビュー戦は覚えていますか

岡田 デビュー戦は東大かな。1年で春の東大からベンチ入ったんだけど、試合はどうかな、試合も東大ですかね。1年の春は4打数1安打じゃないかな。どっかでヒット打ってると思いますね(笑)。

――東京六大学リーグの通算打率、打点では現在もトップで、数々の記録を残された岡田監督ですが、大学時代の「特にこれは」という思い出はありますか

岡田 3年秋の優勝ですね。2年生までは法大には江川さん(江川卓氏)がいてたから、法大の4連覇の時だったので全然歯が立たなかったです。みんなそのメンバーが卒業して、3年になってちょっと法大も弱くなって。(3年時の)春は明治(の優勝)だったのかな。3年の秋に(早大が)優勝した時の優勝パレードというか、僕らは理工学部(のキャンパス、西早稲田キャンパス)から合流しました、明治通りのね。(試合から)帰って風呂入ってユニフォーム着替えて、理工学部からその提灯(ちょうちん)行列の、神宮(明治神宮野球場)からのあれ(優勝パレード)に参加したんだけど、本当すごかったですね。初めての経験で。

笑顔でインタビューに答える岡田氏 【早稲田スポーツ新聞会】

――早大野球部の金森栄治助監督(昭54教卒=大阪・PL学園)は、岡田監督の1学年上ですが、大学時代の関係性はいかがでしたか

岡田 優勝した時(3年時の秋リーグ)は、私が4番で金森さんが5番。春は金森さんは試合には出てないかな。3年春、金森さんは4年春ですね。秋が(自身は)首位打者、三冠王取ったときでした。(金森さんは)PL学園で高校の時から試合を知ってたから、猛練習してました。一番練習してたんちゃうかな、金森さんが。ずっと山倉(山倉和博、昭53卒=愛知・東邦高)さんがいましてね、1つ上で。(金森さんは)ほとんど試合に出てなかったですね。セカンドをやったりもしてたけど、本当にその1年だけですかね。4年の時だけですね。レギュラーキャッチャーで試合に出だしたのは。 それまで1個上の山倉さんがいたから、なかなか試合に出られなかったですから。

――2004年に岡田監督が阪神の監督なさった時、金森栄治助監督を打撃コーチで招聘していたが、打撃の指導面で信頼があってのことでしたか

岡田 監督になったら(コーチで)呼んでなって(金森さんに)言われてたんです(笑)。(金森さんは)ソフトバンクにおったんです、あの時。まだダイエー(福岡ダイエーホークス)時代か、4年(2004年)は。王さん(当時福岡ダイエーホークスの監督)に直接電話して、 金森さんをバッティングコーチに欲しい言うて。(福岡ダイエーホークスの)ユニフォームを着てなかったんですね。巡回コーチみたいな、ダイエーでは。

――引退後、長くプロ野球界で指導者をなさっていますが、指導者になるということはいつ頃から意識しましたか

岡田 そういう線が引かれているというか、そういう(引退後は指導者になるという)感じになるんですよ、早稲田とか慶応(出身の選手)は。阪神でも他の球団でもですね。最近プロも(早大や慶大出身の選手の)人数が少なくなったけど、周りもそういう目で見ますね。将来チームに残ってコーチとかやるというか、私ら(選手)も野球はそんなに(現役では)長いことできないですから。10年、15年て(現役生活が)終わった後の人生の方が長いですから。これはもう野球界になにか貢献しないといけないなっていうのは(現役時代から)思ってますね。もう自然とね、それはね。

――監督、コーチとして選手を指導、指揮するうえで、特に意識していらっしゃることはありますか。

岡田 大学まではアマチュアだけどプロですからね。どこかでシビアに行くというか、みんな個人事業主で個人個人の年俸も違うし、年齢関係なしで力のあるものがたくさんお金を貰って試合に出ていくので、その辺の割り切りを一番に考えました、最初は。 私は二軍で7年ぐらい監督とコーチをやってて、その時に、一軍に上がれるものと二軍でくすぶって辞めて戦力外になるものと分かりましたね。その辺はちょっとシビアに、最初にニ軍(での指導)経験があったから。でも、 選手への接し方は一軍に上がる選手よりも一軍に上がれない選手の方が野球を教えてやろうと思って優しく接しましたね(笑)。野球から離れても、プロ野球OBとして社会人にならないといけないので。プロ野球というのはこんなすごいとこだぞというのを(示せるように)。職の違う人にもプロ野球OBとして見られますので。よく教えた記憶はありますね。

――引退後に早大野球部の試合を観られることはありましたか

岡田 あるある、それはあります。

――最近の試合も見られていますか

岡田 去年(の秋リーグ)見ましたね。小宮山(小宮山悟監督、平2教卒=千葉・芝浦工大柏)からメールが来て、タイガースにあやかりたい言うて、逆転優勝します言うてました。 (早慶戦の)初戦に勝ったから、ほんまかなと思ったら連敗して(笑)。その試合は見てたけど前みたいにNHKも全部(早慶戦の中継を)やりませんからね。私らの時は月曜日(第3戦)まで全部NHKでやってましたから。神奈川テレビもかな。

――2020秋を最後にリーグ優勝から遠ざかっている早稲田大学ですが、優勝するためには何が必要だとお考えですか

岡田 推薦は4人かな、野球部はあんまり取れないですしね。そういう意味では厳しいかもしれませんね。でも、早慶戦にしても強い方が負けるっていうジンクスみたいのもありましたしね、私らの時も。強いからって絶対勝てるわけではないので。優勝っていうのはなんとか鍛えてやるしかないんですかね。なんというかスーパースターみたいな人材が欲しいですね。バッターでも良いしピッチャーでもね。そういう選手が1人いてると、他のメンバーも全然違ってくると思います。華がある選手と言ったらおかしいけど、ドラフトでも何球団も競合して、1位で指名されるようなすごい選手が欲しいなと思いますね、私は。

――それこそ岡田監督のような

岡田 いやいや(笑)。そういう(スーパースターみたいな)人がいたらね、周りもだんだんそういう風になってきますね。1人いてるとだいぶ違うと思います。

――もし岡田監督が早稲田の監督、コーチだったらこうしてみたいとかはありますか。

岡田 今は練習分担制で練習時間が長いと聞いてるから、そこまで用意しないです(笑)。私らの時は安倍球場(1987年に西早稲田から東伏見に移転)だったから、学校に近かったしみんなですぐ集まれたけど、今はやっぱり遠いですね。埼玉というか東伏見は。すごく分担的な練習というか、時間帯もバラバラみたいな感じで聞きました。昔と今はだいぶ違うから難しいですね。なかなか勝つっていうのは。早稲田は早慶戦っていう別格なゲームをできるんだから。最後にその2チームだけが(特別な試合を)できる週末があるわけだから、その辺は感謝して。OBもいっぱいいてるわけですからね、はっきり言うて。復活してほしいと思いますけどね。誰がやっても監督は難しいと思いますね。

――新入生に向けて一言アドバイスお願いします

岡田 今は自由というか、私らの時は何か目指してるものが一つありましたね。私も他の学生にしても、自分の目指すものというか。そういうものを一つも持った方が4年間やったらすごく充実すると思います。私らの時とは時代が違いますからね。とにかく社会に出るための準備としての4年間で、勉強だけでなく周りの友達との付き合い、そういう人間関係をつけると社会に出ても全然違うと思いますね。早稲田大学というのは自分の中にあるわけだから、社会人になってもですね。どこに行っても先輩とかいると思いますね、社会に出ると。歴史を感じながら、社会人になった時のためにはおかしいけど、充実した4年間で学生生活を送ってほしいと思いますね。

――ありがとうございました!

【早稲田スポーツ新聞会】

◆岡田彰布(おかだ・あきのぶ)
1957(昭32)年11月25日生まれ。大阪・北陽高出身。阪神の監督として2度の優勝。現役時代はランディ・バース氏、掛布雅之氏と伝説の『バックスクリーン3連発』を放つなど、強打者として活躍した。
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著者プロフィール

「エンジの誇りよ、加速しろ。」 1897年の「早稲田大学体育部」発足から2022年で125年。スポーツを好み、運動を奨励した創設者・大隈重信が唱えた「人生125歳説」にちなみ、早稲田大学は次の125年を「早稲田スポーツ新世紀」として位置づけ、BEYOND125プロジェクトをスタートさせました。 ステークホルダーの喜び(バリュー)を最大化するため、学内外の一体感を醸成し、「早稲田スポーツ」の基盤を強化して、大学スポーツの新たなモデルを作っていきます。

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