早大バレー部男子 『令和5年度卒業記念特集』山田大貴
「エースへの道のり」
山田がバレーボールを始めたのは中学1年生の時のこと。仲のいい友人と一緒にバレーボール部に入部した。高校時代にはユースに選ばれるなど、その活動範囲は広がっていったが、高校としての全国の経験は決して多くなかった。そんな山田が早大への進学を決めたのは、高校1年生の時に早大の練習に参加したことがきっかけだ。部員一人ひとりが人としてもプレイヤーとしても出来上がっており、チーム全員が同じ方向を向いていると感じた。そういった厳しい環境の中でバレーがしたい、そう考えてのことだった。
得点を決めコートを駆け巡る山田 【早稲田スポーツ新聞会】
3年生になり、同じポジションの大塚達宣(令5スポ卒=現パナソニックパンサーズ)が日本代表の活動のため春季リーグから秋季リーグの途中までチームを抜け、山田にスタメンとしての出場機会が訪れる。大学の公式戦での経験は少ない。初めは自分が関東1部リーグでどのくらい通用するのか、常に挑戦し続ける気持ちで試合に臨んだ。手ごたえとしては通用したという思いが3割、まだできるという思いが7割。苦手としていた守備面で課題を感じ、仲間が肩代わりしてくれることが多かった。結果として春季リーグ、東日本インカレ、秋季リーグはタイトルを獲得できずに終わった。「自分が原因なんだろうな」。試合に出ていた身として、山田は責任を感じていた。
全日本インカレでは大塚がチームに合流し、山田は外から試合を見ていた。今のチームなら負けないだろう、そう思っていた。しかし、結果は3位。このチームで勝てないのなら、来年、自分が大塚の代わりでポジションに入ったら求められるものはもっと大きいし、そうしないと勝てない。その思いが山田を奮い立たせた。
迎えたラストイヤー。春季リーグから早速スタメン入りし、エースとしての道を歩み始める。課題が明確化したのは東日本インカレだ。大会期間中、なかなか調子が上がらず、自身のパフォーマンスが落ちるとともにメンタルも削られてしまう。自分で自分を潰してしまうような時間だった。そんな中、同期は「大貴はそんなに責任を感じなくていいから、自分のことをやってくれたらいいよ」と自分の分まで4年生としての責任感を背負ってくれた。不甲斐なかった。自分にはまだチームを勝たせられる力も、大舞台で戦い抜くメンタリティも備わっていない。チームは優勝したものの、ほかの部員と一緒に喜びきれない自分がいた。
東日本インカレでは調子が上がらない中、トスを上げ続けてくれた後輩に報いたいという思いで打ち続けた 【早稲田スポーツ新聞会】
そしてついに訪れた全日本インカレ。大会前の4年生の対談では同期全員が山田をキーマンとして挙げた。それだけ山田はチームを勢いづける選手になっていたということだろう。これまで自分の調子が悪く勝てない試合もあった。それでも松井監督は自分を起用し続けてくれたし、仲間も自分をカバーしてくれた。だからこそ、「最後くらいはみんなに何かを返したい」。そんな強い思いで試合に臨んだ。試合では強烈なサーブで相手を苦しめ、ブロックを打ち砕くスパイクを放つ。止まらぬ勢いで見事優勝を決めた。加えて最も印象的な選手に贈られるMIP賞も受賞。東日本インカレでは「まだまだエースになりきれていない」と語っていた山田は、最後の大舞台で、間違いなくエースになっていた。
早大での4年間は、気づいたら終わっていた。入部当初はチームと自分のレベルの差を縮めるためにただ練習に励んだ。それ以降も常に自分のさらに上を求められる生活。課題は尽きず、必死に練習していたら、時間があっという間に過ぎていた。今となっては楽しかったと思えるが、実際は苦しい4年間でもあった。それでも時にはぶつかり合った同期とともに乗り越えた4年間は、大きな財産となった。
全日本インカレではMIP賞を受賞。観る人の心を動かした 【早稲田スポーツ新聞会】
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