早稲田大学【競走部2023年度卒業生記念特集】第1回〜長距離〜 佐藤航希

チーム・協会
【早稲田スポーツ新聞会提供】取材・編集 川上璃々
2024年1月3日、第100回東京箱根間往復大学駅伝(箱根)復路当日、区間エントリーに佐藤航希(スポ4=宮崎日大)の名前はなかった。前回大会では4区の早大記録を更新、続く延岡西日本マラソンでは優勝を飾るなど、ロードを中心にチームの主力として活躍してきた佐藤。さらなる飛躍を誓いたい学生最後のシーズンだったが、出雲全日本大学選抜駅伝(出雲)、全日本大学駅伝対校選手権(全日本)に続いて3大駅伝を全て欠場という苦杯をなめることに。しかし、大学卒業を前に4年間を振り返り出てきた言葉は、意外にも「後悔は一切ない。早稲田に来て本当に良かった」ーー。ラストイヤーの苦渋の決断の裏側にはどんな思いがあったのか、充実の4年間と共に振り返る。そして、新たな次のステージでの展望についても語ってもらった。



※この取材は2月27日にオンラインで行われたものです。

「どうしても出場したいという思いがあった」

2023年第99回箱根4区に出走した佐藤(当時3年) 【早稲田スポーツ新聞会】

ーー差し込みの影響で箱根駅伝は見送られたとお聞きしました。事前対談では、11月の上尾シティハーフマラソン(上尾ハーフ)後の練習の調子が上がっているとおっしゃっていましたが、差し込みが気になり始めたのはいつ頃だったのでしょうか

 最初に脇腹が気になり始めたのは出雲駅伝後でした。全日本もそれで回避して、気になりつつ悪化させないようにという感じで当時は練習をしていました。上尾ハーフは、ぶっつけで箱根に挑むより、一度レースを経験した方がいいと思い出場を決めました。当日も後半は差し込みがきて苦しかったですが、そこからもう一回治療に専念し、上尾レース前の状態で箱根を迎える事ができれば・・・と思っていました。最後ということで箱根駅伝に出場したいという気持ちがもちろんありましたが、何度か練習を途中で辞めることがあったので不安ではありました。最後まで花田さん(花田勝彦駅伝監督、平6人卒=滋賀・彦根東)は出走を自分の意志に任せると言ってくださっていて、チーム内でも体調不良者が出たので、さすがにシード権争いの場面で自分がメンバーで入るよりかは、他のメンバーが走った方が安全なのではないかと思って、花田さんと相談して箱根に出場しないことを決めました。



ーー差し込みの原因で思い当たることはありますか

 いろいろ自分も治療で試してみるのですが、これといった原因が分からなくて。でも、自分は横にひねるフォームなのでそこに原因があるのかもしれません。筋力的なものなのか、内臓的なものなのか、はっきりとしたことは分からないです。



ーー花田監督に相談したのはいつごろだったのでしょうか

 箱根駅伝当日の4、5日前の段階で厳しいと伝えました。



ーー箱根出走を見送った時の気持ちは率直にいかがでしたか

 第100回大会だったので、本当にどうしても出場したいという気持ちはありました。ですが、花田駅伝監督からも「早稲田の精神的な8区になってほしい、精神的な部分は航希にかかっているから」とあらかじめおっしゃっていただいていたので、落ち込むことはなく、すぐに気持ちを切り替えてサポートを全力でやろうと思えました。体調不良者も出る中、いい雰囲気で箱根に挑めるようにしようという思いしかなかったです。



ーー箱根当日の動きはどのようなものでしたか


 当日は伊福(陽太、政経3=京都・洛南)の付き添いでした。一斉スタートで見た目の順位と実際の順位が違う状況が発生していたので、シード権との差やその状況とかをタイミングを見ながら教えていました。ですが、彼自身、当日はいつもと同じ立ち振る舞いだったので、そんなにたくさん声掛けをするほど心配していなかったです。安心してアップを見ていました。



ーー急遽起用された同期の栁本匡哉(スポ=愛知・豊川)選手と諸冨湧(文=京都・洛南)選手の当日の走りをどうご覧になっていましたか

 僕は、栁本に関しては、ものすごくかっこいい走りだったなという印象です。結果どうこうよりも、走った選手が全てだと思います。直前の調子や、体調不良など事情はあると思いますが、出て走るまでがアスリートなので。やっぱり出られなかった選手は、厳しい言い方をすればそこまでの選手だったということなので、順位がどうであれかっこいいなと思いました。諸冨は安定感があるので、全く心配していなかったです。体調不良者が出るにつれて、彼の出番が回ってくる可能性が大きくなっていくのを見て、彼がそわそわしている様子を箱根までの数日楽しく拝見していました(笑)。当日の箱根では、ラスト走ってきてタスキを渡す瞬間を見ていたので、すごいかっこいいなと思って見ていました。



ーーゴール後はどのような様子でしたか

 中継所で諸冨から「やり切った」という言葉を聞いて良かったと思いましたし、他の同期もみんな清々しい顔をしていました。結果よりも本人たちの達成感とか、4年間のやり切った思いが強いのかなと思います。



ーーチームの走りはどう映りましたか

 みんな安定感ある走りで、これから楽しみな後輩がたくさんいるなと改めて思いました。



ーー総合7位の結果についてはどう受け止めていらっしゃいますか

 本来ならもっと上の順位を目指すはずだったので、アクシデントもあって厳しいチーム状況だったとは思いますが、しっかりシード権を獲得できたのは非常に良かったと思います。



ーー差し込みの影響で、箱根後に予定していたレースも見送ったのでしょうか

 丸亀ハーフ(香川丸亀国際ハーフマラソン)と大阪マラソンを予定していましたが、ここはしっかり休んだ方がいいということで、急遽全ての予定を取りやめ、休養期間にしました。

「早稲田で良かった。後悔は一切ない。」

2021年早大競技会5000メートルで自己ベストを更新した佐藤(当時2年) 【早稲田スポーツ新聞会】

ーーでは改めて4年間を振り返っていきます。なぜ早稲田に進学し、陸上競技を続けることを決めたのでしょうか

 早稲田に進学を決めた理由は、高校2年生の終わりくらいに都道府県駅伝で井川さん(井川龍人、令5スポ卒=現旭化成)にあって、「早稲田おいでよ」と言われたのがきっかけだったと思います。井川さんに誘っていただいて意識するようになってから、自分の高校時代の実績で行ける1番良い大学に行きたいなと思って、早稲田に行けることを知って。井川さんと中谷さん(中谷雄飛、令4スポ卒=現SGホールディングス)という自分が高校時代に見てきた憧れの先輩が早稲田にいたので、行きたいなと思いました。



ーー入学時に描いていた目標、選手像はありましたか

 箱根に一回でも出れたらいいなと思っていました。一回でも箱根に出ること、それだけしか考えていなかったです。早稲田に対するイメージは全くなく、未知数でした。強いて言うならエリート集団のイメージでしたね。



ーー一番苦しかった時期はいつですか

 大学2年生の時が一番苦しかったです。春先は、早大競技会の5000メートルで13分台を初めて出して、関カレ(関東学生対校選手権)もハーフで入賞して、その流れでレギュラーもつかんで、良い出だしでしたが、全日本と箱根で順位を落とす走りになったので、この年が一番苦しかったのかなと振り返って思いますね。



ーーその苦しかった時期をどう乗り越えましたか

 先輩や同期、後輩に励まされていました。監督からもずっとリベンジだと言っていただいていたので、僕自身このままでは終われないなと思いましたし、二回失敗しましたが、次も恐れず強い気持ちで挑戦しようと常に考えていました。中でも、久保さん(久保広季氏、令4人卒)と菖蒲(敦司、スポ4=山口・西京)は親身になって話を聞いてくれていました。久保さんはふざけて笑わしてくれたり、この2人の支えが大きかったかなと思います。



ーー今話にもあがりました菖蒲選手の存在について伺います。当時、「5000メートル13分台の自己ベスト更新にも菖蒲選手の鼓舞が支えになった」と話されていましたが、やはり4年間で菖蒲選手の影響力は大きかったですか

 日常生活でも競技においても欠かせない存在でした。一番影響力のある人でした。



ーー菖蒲選手との一番の思い出があれば教えてください

 2年生くらいだったと思いますが、合宿で同じ部屋で2人で過ごしたことですかね。合宿の時間の流れをどう早めるかというのを常に考えて、とにかく暇な時間を過ごさないように、試行錯誤して過ごした夏は、非常に印象に残っています。妙高合宿でAチームにいたのですが、合宿の最終日の前日に相楽監督(相楽豊前駅伝監督、平15人卒=福島・安積)から「航希と菖蒲だけあと1週間残ろうか」と言われて、またBチームに合流して約3週間妙高で過ごしたのは、かなり強烈な思い出です(笑)。



ーー駅伝では、かなり重要なここぞという場面でタスキをもらっていた印象があります。その時のプレッシャーなど、思い出してみていかがですか

 何事も経験が大事だと常に思っているので、これも駅伝の醍醐味だと思って、1、2年後に必ず生きると思ってレースに臨んでいました。



ーー4年間で印象に残っているレースはありますか

 3年時に井川さんからタスキをもらった箱根駅伝は印象に残っています。やっぱり井川さんに憧れて早稲田に入ってきたのもあったので、最後にタスキリレーできたのが、非常に嬉しかったです。



ーー4年間を通して人間的に成長したと感じる部分はありますか

 精神面だと思います。4年間を経て非常に感情の起伏も無くなってきました。どのレースに対しても、どっしり構えて、あまり取り乱すことがなくなったので。その点が成長したのかなと思います。



ーー4年間のターニングポイントはありますか

 花田さんに駅伝監督が変わった時がターニングポイントだと思います。オリンピックを経験した監督は数少ないですし、そういった方から指導を受けられるのは非常に光栄なことだと思います。指導面でも、日頃の立ち振る舞いでも、これまでの経験談が刺激になるなと感じたので、そこが僕の4年間のターニングポイントだと思います。



ーー早稲田での生活について、4年間を終えてみて1年時の理想とギャップはありましたか

 個人として区間賞をとったこともないですし、これと言ってパッとする結果を出したわけでもないですし、3大駅伝でチームが勝ったわけでもないですが、他の大学に行けば良かったと思う気持ちは一切ありません。早稲田だからこそ、という出来事がたくさんありましたし、早稲田ならではでの縁や人のつながりもあったので、そういった意味で早稲田に来て良かったと強く思います。



ーー4年間の後悔があれば教えてください

 競技面では一切ないです。強いていうならば、大学1年時のオンラインの授業をしっかり取っていれば、3、4年時で単位を取るのに苦労しなかったなと思います(笑)。



ーー感謝している人はいますか

 関わってくれた人全員です。誰が欠けてもダメですし、一人は選べないです。



ーー4年間で学んだことで、今後大切にしたいことがあれば教えてください

 人の頑張りとか、人の想いやりに気づける人間になりたいと思います。競技面とはあまり関係ないかもしれませんが、選手が走る中、見えないところで支えてくれる人が何人もいて、その人たちのおかげで僕たちの競技が成り立っているので、自分たちが見えない方々の頑張りや優しさに気づける、そんな人間になっていきたいと4年間を通じて思いました。



ーー佐藤選手にとってエンジとは

 『伝統』です。僕が大学1年生の時からエンジのユニホームに憧れていましたし、誰しもが着れるわけではないので、あのユニホームを着て走ることができるのは誇りです。これまで日本代表に選ばれた方々が代々受け継いで着ていたと考えると、改めて早稲田は伝統校だなと感じますね。

「地元の方々の思いに応える走りを」

延岡西日本マラソンで優勝し、花田駅伝監督と撮影に応じる佐藤(当時3年生) 【本人提供】

ーー4月からは、旭化成で競技を続けられると思います。選んだ理由は井川選手の存在もありましたか

 ずっと井川さんの追っかけばっかりですね(笑)。それも大きな理由の一つですが、僕自身、宮崎の延岡市出身で地元の企業なので、そこに就職して旭化成のユニフォームを着て走りたいと小さいころから思っていました。



ーーこれから地元で練習できることについていかがですか


 延岡市民の一人として、地元の方々が旭化成に対して愛情を持っている町だと小さい頃から知っています。次は市民の皆さんの気持ちを受ける側として、その思いに応える走りをしたいと思います。



ーー1年目の目標はいかがですか


 まずは、環境に慣れることです。結果は特に定めていませんが、何らかの形で自己ベストを出したいと思います。



ーー今後長期的に見て、どのような選手になりたいですか

 やはり何かしらの代表になりたいという思いはあります。競技面では小さいことでも良いので、何か一つ誇れるようなものを残して引退したいです。



ーー同期、後輩へメッセ―ジをお願いします

 同期は、みんな「宮崎に遊びに行くね」と言ってはくれたものの、多分本気で誰一人として行きたいと思っている人はいないと思うので・・・。絶対に来てください!後輩に関しては、僕からアドバイスできることは何一つとしてありません。本当に結果を楽しみにしています!後輩はみんな気にかけていますが、山口(智規、スポ2=福島・学法石川)は学生のうちにどこまでいけるのか非常に楽しみです。あと、伊藤幸太郎(スポ2=埼玉・春日部)が個人的に成長すると思っているので頑張ってほしいなと思います。



ーー最後にファンの方へメッセージをお願いします

 たくさん応援してくださってありがとうございました。旭化成の佐藤航希も応援宜しくお願いします!
◆佐藤航希(さとう・こうき)

 2001(平13)年8月2日生まれ。168センチ。宮崎日大高出身。スポーツ科学部。長距離以外でやってみたい陸上競技は棒高跳び。「宙に浮いてみたいです。僕は高いところからいろいろ見るのが好きなので、どういう景色を見てるのかなと興味があります(笑)」(佐藤)。今後も棒高跳びではなく、長距離ランナーとして地元・宮崎で競技を続けることになりますが、高みを目指して着実に上のステージへ駆け上がっていくことでしょう!旭化成のユニフォームを着て走る佐藤選手に乞うご期待です!
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著者プロフィール

「エンジの誇りよ、加速しろ。」 1897年の「早稲田大学体育部」発足から2022年で125年。スポーツを好み、運動を奨励した創設者・大隈重信が唱えた「人生125歳説」にちなみ、早稲田大学は次の125年を「早稲田スポーツ新世紀」として位置づけ、BEYOND125プロジェクトをスタートさせました。 ステークホルダーの喜び(バリュー)を最大化するため、学内外の一体感を醸成し、「早稲田スポーツ」の基盤を強化して、大学スポーツの新たなモデルを作っていきます。

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