【浦和レッズ】「ここで潰れたら、自分はそれまで…」プレッシャーに立ち向かう伊藤敦樹が手にしつつある変化と進化

浦和レッドダイヤモンズ
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【©URAWA REDS】

 動ではなく静——。

 動くのではなく、止まることで、伊藤敦樹はゴールを演出した。

 10月20日に行われたJ1リーグ第30節、柏レイソル戦の53分だった。

 ボールを持ち運んだアレクサンダー ショルツが右サイドバックの酒井宏樹にパスを戻す。その瞬間、伊藤はゴール方向にアクションを起こすのではなく、立ち止まると、ボールに近寄っていった。

 酒井からのパスを受けた大久保は、伊藤の“動き”を感じ取ると、その後方を斜めに走る安居海渡へスルーパスを出した。

 安居が思い切りよく放ったシュートをGKがこぼすと、走り込んだ小泉佳穂が右足で流し込み、先制点は生まれた。

 伊藤は動くのではなく、止まることで、相手のマークを引きつけ、安居が走り込む空間をも創出したのである。

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「トモ(大久保)がパスを出したような状況だと、自分がDFの裏に抜けていくことが多いですけど、相手が自分の動きをかなり警戒していたので、自分が止まることによって、相手の足も一度、止まりました。それをトモが感じてくれて、海渡も自分の動きを見て判断してくれた。

 まさに、みんなのイメージが共有できたことで生まれたゴール。自分がボールに関わらなくても、ゴールに関わる。そういうこともできるようになってきているのは、個人的にもうれしいです」

 あくまでワンプレーであり、断片でしかないが、自らがボールに関わることなく、攻撃を創造した。確実に、着実に、新境地を切り開きつつある。

「日本代表に選ばれてからは、必ずその肩書きがつきますし、対戦相手も、浦和レッズのファン・サポーターも、試合を見に来ている全員が、今までとは違う目線で自分を見ていることは感じています。

 正直、そのプレッシャーは感じていますし、それによって今までのようにうまくいかないところもあります。でも、ここで潰れたら、自分はそれまで。結果で示せるのか、プレーで表現できるのか。未来は自分にも分からないですけど、今後も継続的に(日本代表に)呼ばれるように、見せ続けるしかないと思っていますし、そのプレッシャーから逃げずに立ち向かっていきたい」

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 見る目が変わったのは周りだけでなく、自分自身への目線も、だった。

 初めて日本代表に選ばれたのは6月14日——離脱した選手が出たことによる追加招集だった。

「最初は本当に驚きました。練習を終えて、家に帰ったタイミングでチームから連絡をもらって、慌てて準備をして移動したので、感情を整理する間もなく、ビックリしたまま、日本代表に合流しました。しかも、練習をすることなく、翌日にすぐ試合でしたからね。

 呼ばれたからには爪跡を残したいとは思っていましたけど、正直、何かを残せるほどの時間もなくて。自分のやることをしっかりやって、少しでも持ち味を出せたらいいなと」

 だから、日本代表デビューを飾った6月15日のエルサルバドル戦も「試合に出られたことはよかったですけど、それだけでした。練習もしていなかったので、ただ15分間、ピッチに立っていたというくらい、何もできなかった」と、振り返る。

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 続くペルー戦で出場機会はなかったが、日本代表の空気に触れ、得た刺激は大きかった。

「日本代表に呼ばれたことによって、自分に足りないものがなんなのかを知ることができたし、もっと、もっと上に行きたいと思いました。そのとき、次もここに呼ばれる選手になりたいと初めて思ったように、自分のなかに確かな変化がありました」

 驚きだった初招集を経て、9月の欧州遠征でも日本代表に招集され、その思いは強さを増し、自分への目もより厳しくなった。

「誰かの代わりに呼ばれた追加招集とは異なり、最初からメンバーに選んでもらえたことで、自信がつくきっかけになりました。活動期間も長く、ほとんどの選手と話す機会があったことも大きかった。ヨーロッパでプレーしている選手がほとんどで、練習の強度も、試合の強度も高くて、このレベルで自分もやれるようにならなければいけないと、強く、強く感じました」

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 だから、伊藤は自身のプレーに向き合い、足りないのは「すべて……全部です」と語る。

「同じポジションの(遠藤)航さんやヒデさん(守田英正)は、フィジカルも、守備の強度も、技術も、サッカー選手としての基礎的な能力すべてが高かった。自分はまず、そこを目指さなければいけないし、だからといって現時点で航さんやヒデさんがこうだったから、マネをしようというのはあんまり思っていない、というか。

 感じた印象としては、サッカーに必要な能力のすべてを持ち合わせていなければいけないのがボランチでプレーする選手。そのうえで、自分にしかできない違いというか、特長を出さなければいけない」

 日本代表で初先発した9月12日のトルコ戦では、15分に右サイドから中にボールを持ち運ぶと、パスワークからミドルシュートを決めて代表初ゴールをマークした。

「すべてがイメージどおりにいったゴールでした。あの形は浦和レッズでも試みている動きですし、コンビネーションで相手を崩して、あの位置からシュートを打つ選択ができるのは、自分の思い切りの良さだと思っています」

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 10月の活動でも継続して日本代表に選ばれているからこそ、初先発や初ゴールに満足することなく、さらに成長しようともがいている。

「今、浦和レッズで見せている自分のプレーや良さをさらに向上させていくことはもちろん、苦手というか、足りないところにチャレンジしていく必要性も感じています。そこにもっともっと、トライしていかなければいけないと感じているので、それがうまくいったり、いかなかったりする試合も、今はまだあるというのが現状です」

 苦手、もしくは足りないと感じているのはどこなのか。そこに柏レイソル戦で見せた「静」の動きや、開きつつある新境地はあった。

「ビルドアップするときの立ち位置もそうですし、自分が相手を剥がして前を向くプレーもそのひとつです。あとは、チームの戦術的に、自分が前に出て、(岩尾)憲くんが後ろにいることが多いですけど、自分がもっとリスクマネジメントやゲームコントロールができるようになれば、ときにはふたりの立ち位置を逆にすることもできるようになる。

 相手を見てプレーすることは憲くんの優れているところでもあるし、今まではそこに頼ってきたところもありましたけど、日本代表の活動に参加して、自分に足りないところを認識し、刺激も受けて、そうしたところにも目を向けて、自分が発信していくことも選手としては大事だなと思っています」

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 ときには横、ときには縦の関係でコンビを組む、岩尾もパートナーの変化を感じていた。

「メンタリティー的なところに違いを感じています。より欲が出てきたというか、もっと成長したい、彼らに追いつきたいという気概が出てきている。まだまだシャイなところはありますけど、僕に対して言ってくることや、宏樹にも『こうしたほうがよくないですか?』って提案しているところを見ると、コミュニケーションの質は向上しているように感じています。それが積極性につながっているように思います」(岩尾)

 マチェイ スコルジャ監督は、日本代表に選ばれるようになった伊藤が、さらに成長するために必要なことを次のように語っている。

「経験を積み、チームの結果に対する責任をより大きく感じる存在になってくれば、彼は(遠藤航が所属する)リバプールよりさらにいいチームでも通用すると思います」

マチェイ スコルジャ監督と 【©URAWA REDS】

浦和在籍時の遠藤航 【©URAWA REDS】

 自らもかつては浦和レッズのサポーターであり、浦和レッズのアカデミーで育ってきただけに、このクラブでプレーする思いは誰よりも感じている。

「浦和レッズでプレーしている以上、結果に対しての責任は人一倍あると思っているので、さらにそれを感じるようになるのは難しいことですけど、今、自分が思うのは、すべての結果を自分だけのせいにはしたくはないですし、誰かのせいにもしたくはないというか。チームでやっている以上、チームとしてその責任を感じていくことができればと思っています」

 チームという単位こそが、さらに成長する答えのような気がして、言葉の続きを待った。

 本人も気づいたのだろう。紡ぎ出された言葉は力強かった。

「試合に負けたとき、今は自分の感じ方と、もしかしたら憲くんの感じ方は違うかもしれない。憲くんは、個人のプレーがうまくいかなかったとかではなく、チームとしてうまくいかなかったこと、ダメだったことに目を向けている。

 僕はまだ、試合に負けたとき、自分のプレーがどうだったかを反省することが多い。そこでチーム全体を見て、責任を感じるようになれば、監督が言うように、選手として、人としてひとつ、ふたつ成長できるのかもしれないですね」

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 日本代表について話を聞くなかで、かつて浦和レッズでプレーし、今やキャプテンとして日本代表をけん引する遠藤について、伊藤はこう語ってくれた。

「存在感がすごかった。攻守において航さんがいるのといないのとではガラっと変わるくらいに。それはピッチ内外での立ち居振る舞いも含めて」

 個ではなくチームという単位で物事を見られるようになったとき、浦和レッズの背番号3のプレーはさらに責任感を伴い、醸す存在感も増していく。


(取材・文/原田大輔)

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著者プロフィール

1950年に中日本重工サッカー部として創部。1964年に三菱重工業サッカー部、1990年に三菱自動車工業サッカー部と名称を変え、1991年にJリーグ正会員に。浦和レッドダイヤモンズの名前で、1993年に開幕したJリーグに参戦した。チーム名はダイヤモンドが持つ最高の輝き、固い結束力をイメージし、クラブカラーのレッドと組み合わせたもの。2001年5月にホームタウンが「さいたま市」となったが、それまでの「浦和市」の名称をそのまま使用している。エンブレムには県花のサクラソウ、県サッカー発祥の象徴である鳳翔閣、菱形があしらわれている。

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