【D】スターの重圧の中プレーした堂上直倫

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チーム・協会
【これはnoteに投稿されたIt's time for our baseballさんによる記事です。】
 驚きと言うべきか、やはりと言うべきかは分からないが、堂上直倫が現役を引退するようだ。地元の愛工大名電高から競合のドラフト1位で入団し、背番号1を付けて戦った彼からは、周りの期待を重く背負った悲壮感を覚えることが多かったので、今回はその事について書いていくこととしよう。

「上昇気流」に乗れなかった若手時代

 堂上直倫というと、やはり若手時代の活躍が最も印象深いだろう。特に平成22年。正遊撃手の井端弘和が故障し、その穴に見事にハマったのがこの年である。中日の若手選手には珍しい豪快なフルスイングには、かなりの期待をしたものである。荒削りながら、チャンスに強い打てる内野手。その特徴からは、将来のスター選手を約束されているかに見えた。しかしながら、翌年から俗に言う「飛ばないボール」に変更されてからもがき苦しんだのだ。

 その後、いつしか豪快な打法は小さく纏まってしまい、守備位置もコロコロと変えて行った。「若手の抜擢」とは程遠い、故障で空いた穴に彼が入るというタライ回し状態になってしまったのだ。その間に平田良介や大島洋平、高橋周平といった当時の若手選手が着々と成長していき、次第に堂上直は「育成失敗」という肩書きがついてまわるようになってしまったのだ。

勇敢に立ち向かった全盛期

 背番号1を剥がされ、別れた兄が背負っていた63を背負った時は、彼の野球人生も残り少ないのかなと思ってしまった。そんな中、谷繁元信監督によって1年だけレギュラー選手を全うしたが、そのシーズンのオフに現横浜の京田陽太が入団。助っ人外国人で何とか賄っていた内野手の層が厚くなると共に、堂上直がレギュラーに返り咲く可能性もどんどんと低くなって行ったのだ。

 そんな中で、彼に居場所を与えたのが前任の与田剛監督だ。彼を内野の守備固め、そしてここ一番の代打の切り札として重宝したのだ。当時正二塁手だった阿部寿樹の不調時には、二塁手のスタメンとして存在感をみせていたことは記憶に新しいだろう。「背番号1のスター選手」という期待されていた将来像とは真逆の、試合の脇役であるスーパーサブへと落ち着いたが、このポジションを手に入れた彼はどこか活き活きしていたものだ。

今後も中日に残って欲しい!

 典型的な「記録よりも記憶」という選手だが、僕は彼を必ず中日球団に残して欲しいと願っている。出来ればユニフォーム組、コーチとしてである。

 彼は中日球団の負の体質を経験している選手だ。親会社の中日スポーツにて過剰に報道されてしまい、地元の選手としての期待が重荷になってしまったという経験だ。これは現在、同じく地元の高校を出たドラフト1位選手である髙橋宏斗や石川昂弥、そして根尾昂にとって必ず有益な指示を出せるようになるのではないか。

最後に

 夢見るこの世界で彼が掛けた34本の本塁打は、我らが熱くなる何かを教えてくれた。また1人、思い入れのある選手が引退してしまった。どんどんと中日への熱が下がってしまうようで、とても寂しい気分に駆られている。

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