ヤマハ発動機ジュビロと、静岡ブルーレヴズと、大漁旗【大漁旗ヒストリーコラム】
【(C)SHIZUOKA BlueRevs】
Photo by 静岡ブルーレヴズ / 谷本 結利(静岡ブルーレヴズ オフィシャルフォトグラファー)
選手の名前や似顔絵イラストなどが、目がチカチカしそうな極彩色で染め抜かれた、鮮やかすぎるほどにハデハデな、何本もの大漁旗だ。
過去2シーズンはコロナ禍により、応援旗は試合中のスタンドで振ることを禁じられていたが、リーグワン2年目を迎えた今季は旗を振っての応援が解禁され、久々にスタンドになびく大漁旗を見られることとなった。
戻ってきた鮮やかな光景 【(C)SHIZUOKA BlueRevs】
2015年の日本選手権の秩父宮ラグビー場のバックスタンド 【(C)SHIZUOKA BlueRevs】
記者は、その「最初の人」にたどり着くことができた。
高岩和夫さんはヤマハ発動機の子会社「ヤマハ発動機マネジメントサービス」の管理職をしているとき、のちに主将としてヤマハ発動機ジュビロ初の日本選手権優勝を達成する三村勇飛丸選手が新入社員として配属されてきた。
「たまたま、私の卒業した明治大学の後輩だったんですね。私も学生時代は4年連続で国立競技場に早明戦を見に行って、ラグビーの盛り上がりを体感していたし『これは応援しなきゃ』と思ったんです」
2011年10月29日。三村勇飛丸のデビュー戦 【(C)SHIZUOKA BlueRevs】
『勇飛丸』
である。「丸、とつく彼の名前を見て、真っ先に思い浮かんだのが漁船のイメージです」それはすぐに『応援用の大漁旗を作ろう』というアイデアに繋がった。「僕は新入社員のときからしばらく、マリン事業部で漁船のエンジンを販売する営業を担当していて、進水式にもたくさん立ち会ってきたんです。あの華やかな感じを出せたら良いな、もう大漁旗しかないな、と思いました」
高岩さんは静岡県内だけでなく三重県、福岡県も担当した。福岡時代は県内だけでなく九州各地を担当。長崎の離島にも何度も通ったという。進水式ではその船に送られたたくさんの大漁旗が飾られるだけでなく、漁師仲間の旗も一緒に掲げられ、それはそれは華やかな空間だった。ラグビーを応援する現場も、そんな華やかな空間だったら良いな、と高岩さんは思った。
じゃあ、どんな大漁旗を作ったらいいだろう?
高岩さんのイメージは「勇飛丸」の名から連想した「夕陽」と、「丸」から連想する船=海、そして、これから強くなって勝っていくイメージを託した「昇り龍」。それらをあわせたデザインを、北海道にある業者に作ってもらったという。「綿素材で、本染めの、本物の大漁旗です」
まさに勇ましい、三村勇飛丸の大漁旗。 【(C)SHIZUOKA BlueRevs】
2013年9月。スタンド内に大きく揺らめく三村勇飛丸の大漁旗。 【(C)SHIZUOKA BlueRevs】
そこまで目立てば、多くの人の知るところになる。ある日、高岩さんはマリン事業部時代の上司から言われたという。「五郎丸の旗もないのになんで勇飛丸の旗があるんだ? 五郎丸の旗も作るから、どこでつくればいいか教えろ!」
時はちょうど、ヤマハ発動機ラグビー部が「プロ選手廃止・強化縮小」の荒波に揉まれた期間を経て、再起を図っていた時期だ。現在CROを務める五郎丸歩さんやプレイングコーチの矢富勇毅さんら、プロ契約選手として入団した選手が社員として各部署に配属された。それまで「職場」のなかったプロ選手にも上司や同僚ができ、いわば、もっとも身近な個人応援団が結成されたわけだ。高岩さんのかつての上司は、五郎丸さんの上司になっていた――かくして「勇飛丸」に続く「五郎丸」の大漁旗が生まれたのだ。
勇飛丸に五郎丸。そしてそこから広がる多くの大漁旗(写真は2017年) 【(C)SHIZUOKA BlueRevs】
内容はほとんどが「大漁旗の作り方/発注先を教えて下さい――」
やがて、そうして増えた大漁旗を振る人たちは自然と仲間になり「旗振りのフォーメーションを考えたり、一般の方に邪魔にならないように自分たちでルールを作ったり。試合のあとは『旗振り仲間』で飲みに行ったり(笑)」
高岩さんのこだわったリアルな大漁旗は「木綿・本染め」だった。「風を受けたときのはためき方が違うんですよね。雄大というか。」いわばホンモノの旗。だがその分、風を受けたり、雨に濡れたりするとめちゃくちゃ重くなる。「そういうときは、近くにいる知らない人が支えてくれたり、たたむのを手伝ってくれたりしたこともあります。試合のあと、飲みに行ったら手伝ってくれた人が同じ店にいたり、なんてこともありました」
雨の日の大漁旗。濡れてどうしても垂れ下がってしまう旗を、同僚社員の皆さんは力の限り振り続けてくれた。(写真は2019年) 【(C)SHIZUOKA BlueRevs】
ヤマハ発動機ジュビロが躍進していき、ラグビー部員が所属する部署が盛り上がっている様子は、ラグビー部員のいない部署から眩しく見えていたようだ。
「当時、私のいた部署にはラグビー部員がいなくて、うらやましいなあ、と思っていたんです」
と話すのは猿渡裕さん。ヤマハ発動機SPV事業部で電動アシスト自転車の開発に従事していた。
「そう思っていた頃に、同じ部署に西内勇人(FL、2015年入社)が配属されてきたんです。聞くと、出身が福岡で、私と同郷だったんですね。これは応援しなきゃ(笑)。ちょうど同じ部署に、五郎丸さんや矢富さんの応援旗作成に関わった方がいらして、同じように作りました」
猿渡さんが初めて作った西内勇人(現静岡ブルーレヴズ リクルーター)の大漁旗 【(C)SHIZUOKA BlueRevs】
そうして多くの選手のオリジナル応援旗が増えていき、旗振り仲間が増えていくうちに、誰からともなく「みんなの分がほしいよね」という声も上がったという。「職場」のないプロ選手には応援旗がなかったのだ(リーマンショックからの業績回復とチームの成績向上が相乗効果となり、ジュビロには外国人選手を含むプロ選手が再び増えていた)。旗振り仲間のとりまとめ役を務めるようになっていた猿渡さんたちは、職場のないプロ選手の応援旗を作るためのクラウドファンディングを実施し、ヴィリアミ・タヒトゥアら外国人選手の応援旗を作ったという。
全体は映せていないが、ヴィリアミ・タヒトゥアの大漁旗。有志一同の文字も 【(C)SHIZUOKA BlueRevs】
写真中央には三村勇飛丸のもう一枚の大漁旗。現在の所属部署で作られたもの。 【(C)SHIZUOKA BlueRevs】
近年加入した選手の応援旗作成にあたっては、旗全体のデザインを色味、名前のフォント、プリントする選手の写真などなどの候補となる多くの要素を部署内でコンペにかけ、投票結果を反映させて作られた旗もあるという。中には選手自身が座右の銘にしている言葉を入れたり。
「個性的な旗が増えていますね」と猿渡さんは笑う。まさしく多様化、ダイバーシティの時代を体現している。
それぞれの個性あふれる大漁旗 【(C)SHIZUOKA BlueRevs】
3/11エコパスタジアムには30本近くの大漁旗が並ぶ予定。ひとつひとつ、噛みしめて見ていただきたい 【(C)SHIZUOKA BlueRevs】
1970・80年代に日本選手権7連覇を達成した伝説のチーム・新日鉄釜石の全盛期は、満員の国立競技場にはためく大漁旗が風物詩だった。釜石の場合は、地元の漁師さんたちのホンモノの大漁旗を応援旗として使うのが応援スタイルだった(当時は個人の旗を新たに作るという発想がなかったようだ…)。
現在のブルーレヴズにとっても、釜石との繋がりは特別な意味を持っている。
2011年、東日本大震災が起きて3ヵ月も経たない6月5日、ヤマハ発動機ジュビロは釜石を訪れて釜石シーウェイブスと試合をした。それは、甚大な被害を受けた東北の沿岸地域で震災後初めてのスポーツイベントだった。
ゲームキャプテンを務めた五郎丸歩 【(C)SHIZUOKA BlueRevs】
試合前には黙とうが捧げられた 【(C)SHIZUOKA BlueRevs】
釜石シーウェイブスでは、富来旗(ふらいき)と呼んでいる 【(C)SHIZUOKA BlueRevs】
2022年のラグビースクール交流戦 【(C)SHIZUOKA BlueRevs】
今シーズンのともだちマッチでは、両チームのエンブレムが絵が描かれた大漁旗を作成。現在釜石シーウェイブスで保管いただいている。 【(C)SHIZUOKA BlueRevs】
3.11、そして大漁旗が繋いだ両チームの交流は今後も続いていく。 【(C)SHIZUOKA BlueRevs】
熱いパワーを受け取り、ピッチに飛び出す 【(C)SHIZUOKA BlueRevs】
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