プロ野球 横浜DeNAベイスターズ 京田陽太 選手 インタビュー「休んでいる暇はない」
【日本大学】
1部昇格で即ベストナイン
戦国といわれる東都で、日大の1部優勝は04年の春以来の快挙だった。キャプテンだった京田選手は「下級生のためにも、なんとか1部残留を」と打率.328の好成績で、Vを置き土産にドラフト2位で中日入り。1年目からショートのポジションを獲得し、球団新人最多記録の149安打で新人王に輝いている。
石川県能美市出身。あの松井秀喜氏と同郷で、市主催の応援ツアーに当選し、当時ニューヨーク・ヤンキースの松井氏と握手したことがある。となると、松井氏の母校である星稜高を志しそうなものだが、「県外での寮生活にあこがれた」京田選手が選んだのは、青森山田高だった。だが、同じ県内の光星学院(現八戸学院光星)高には田村龍弘(現ロッテ)、北條史也(現阪神)らがいて、甲子園には出場できていない。なにしろ光星はその時代、甲子園で3季連続準優勝と盤石だったのだ。
「ほかに同年代では、同じ東北の花巻東(岩手)に大谷翔平がいました。練習試合で対戦したときには、登板はしませんでしたが、打席ではすごい打球を打っていた。こすったような当たりでホームランですから」
新しい環境にむしろ感謝して
「3年生まではどちらかというと"自分が、自分が"というタイプ。ですがキャプテンになって、もっと周囲を見て、人の話を聞き、コミュニケーションを取らなくちゃ、と考えを変えたんです。それでなんとか、チームはうまく回るようになったんですが……」
その春、自身の成績は不本意だった。夢であるプロ入りには勝負の年なのに、だ。チームの主力は下級生がほとんどで、それをまとめることに多くのエネルギーを消費したからかもしれない。仲村恒一監督(当時)は、苦しむ京田選手の姿を見かねたのか、こう声をかけたという。自分のことだけ考えて、好きにやっていいから。ちょうどそのころ、現監督の片岡昭吾氏がグラウンドに来てくれるようになり、打撃改造にも取り組んだ。その成果が、4年秋の優勝と打率.328、そしてプロでの活躍に結びついたといってもいい。
渡辺英昭コーチのノックを受ける京田選手。 【日本大学】
プロ球界だけではなく政・財・官界、文化芸能と各ジャンルに出身者の多い日大。「去年、試合に出られず苦しいときにも、たくさんの方から連絡をいただきました」 【日本大学】
いまは、打撃の正確性を求め、しっくりきていた大学4年時の感覚を見つめ直しているところだ。懐かしいグラウンドでの自主トレ。京田選手は、当時をこう振り返る。
「あのころは毎日毎日、練習が終わったあと、三塁側ダグアウトのわきで壁当てをするのが日課でした。50球、100球、状況を想定して足を動かし、ショートバウンドもシングルキャッチも、かたちを意識しながらコツコツと継続していた。歯磨きのように、それをやらないと気が済まなかったんです。目標はなんでも、そこに向かって根気よくなにかを継続していくこと。いまの学生にアドバイスするとしたら、そこですね」
ティー打撃で汗を流す。大学4年時には、現日大監督の片岡昭吾氏と打撃改造に取り組んだ 【日本大学】
メディア対応する京田選手。「守備は遊撃にこだわってやっていきたい」と話しつつ、「チームから求められることがあれば、しっかり準備していきたい」 【日本大学】
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