【大分国際車いすマラソン】一人の医師の情熱から始まった、思い受け継ぐ奇跡の大会
【写真:社会福祉法人 太陽の家】
男子の注目選手は、クラスT34/T53/T54、大会3連覇中で世界記録保持者のマルセル・フグ選手(スイス)。昨年の東京パラリンピック大会では、フィールド競技含め4個の金メダルを獲得しました。日本選手も負けてはいません。日本記録保持者の鈴木 朋樹選手。昨年の同大会ではフグ選手に敗れ2位でしたが、雪辱が期待されます。
女子は、前回大会優勝の喜納 翼選手が連覇に挑みます。48歳の鉄人・土田 和歌子選手、東京パラリンピック・銅メダリストのニキタ・デンブア選手(オランダ)も出場します。
40回を超え、今では国内外から多くの選手が参加するようになり、ハイレベルな世界的にも大きな大会になりました。
しかし、第1回大会が行われたのは1981年。まだまだパラスポーツ、障害者スポーツが現在のように多くの人の目に触れる機会が少なかった時代です。社会の理解も足りなかったと言えます。だからこそ、この大会は、情熱と信念を持った人々の思いが集結し、多くの壁を乗り越え成長していった奇跡の大会なのです。
そんな大会の出発点には、一人の医師の存在がありました。
本文:佐野 慎輔(笹川スポーツ財団 理事/尚美学園大学 教授)
地域住民とともに
「がんばって」「あした楽しみにしているよ」
大分車いすマラソンの参加選手たちが商店街をパレード(写真は2019年のものです) 【笹川スポーツ財団スタッフ撮影(2019年)】
一人の医師から始まった
思えば1981年、国際障害者年に合わせてこの世界初の車いす単独大会が始まった。呼びかけたのは「日本パラリンピックの父」と呼ばれた医師、中村裕である。
「先生、僕らもマラソン大会に出たい」
中村は開催に尽力した1964年東京パラリンピックの翌年、別府に障害者の社会復帰を支援する福祉法人『太陽の家』を創設。スポーツによるリハビリに力をいれていた。その『太陽の家』入所者である車いすランナーからかけられた言葉がきっかけとなった。
中村裕 【写真:社会福祉法人 太陽の家】
しかし、県陸上競技協会の回答は「マラソンとは二本の脚で走る」という定義に従い、「NO」だった。ただ「単独開催ならば…」との言葉を引き出し、中村は開催にむけて走り出した。それがこの大会である。
「障害者だからといって特別扱いすることはない。ただ、彼らに機会を与えてほしい」― 中村の信念がこの共生社会のモデルのような大会を生んだ。
中村裕とは…?
周囲の冷たい反応にもめげず、1961年には大分県身体障害者スポーツ大会を創設、64年の東京パラリンピック開催に道を開いた。75年にはアジア、太平洋地域の障害者によるスポーツ大会「極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会」通称フェスピックを創設し、別府で第1回大会を開催した。現アジア・パラリンピック競技大会の前身である。
同時に社会福祉法人『太陽の家』とオムロン(当時は立石電機)やソニー、ホンダ、そして三菱商事や富士通、デンソーといった日本を代表する企業と一緒に合弁会社を創り、障害者の雇用を進めたことはつとに知られる。
中村はそうした活動をしっかり根付かせて1984年7月、57歳の若さで風のように逝った。しかし、その精神はいまに残る。
「No Charity, but a Chance!」
いまや、中村の思いに賛同したトップ企業が『大分国際車いすマラソン』のよき理解者となり、毎年応援団を編成して声援を送り続けている。三菱商事などは社員ボランティアを募り、会場整備や選手の受付など運営に大きな役割を果たしている。
中村の撒いた種が確実に、着実に花開いているのだ。
語り継ぐこと
男女マラソンT34/T53/T54の優勝者には「中村裕賞」が贈られる 【笹川スポーツ財団スタッフ撮影(2019年)】
しかし、そうした顕彰だけではなく、なにか未来に中村の存在を語り継ぐ縁よすがが欲しい。そんな思い抱くのは私ひとりだろうか。オリンピックでは100周年記念となった1996年アトランタ大会から再び、創設者ピエール・ド・クーベルタンの功績を開会式で紹介するようになった。変化とともに種を撒いた人をどう語り継ぐか、それもまた大事なことだと考える。
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