三宅 宏実 インタビュー 五輪5大会連続出場に不可欠だった指導者・父の存在

笹川スポーツ財団
チーム・協会

【フォート・キシモト】

1968年メキシコオリンピックで初めて兄弟そろって表彰台に上がったのがウエイトリフティングの三宅義信氏(金メダル)・義行氏(銅メダル)兄弟です。その義信氏を伯父に、義行氏を父に持つ三宅宏実さんは自身もオリンピックに5大会連続で出場し、2012年ロンドンオリンピックでは銀メダル、2016年リオデジャネイロオリンピックでは銅メダルを獲得。日本の女子ウエイトリフティング選手の先駆者として活躍しました。

東京2020オリンピックを最後に現役を引退し、指導者の道に進み始めた三宅さん。21年間の競技生活を振り返ると同時に、コロナ下で開催された東京オリンピックについてうかがいました。


聞き手/佐野慎輔
文/斎藤寿子
写真/フォート・キシモト、三宅宏実
※本記事は、2022年6月に笹川スポーツ財団ホームページに掲載されたものです。

ウエイトリフティングで初めて持てた夢

引退会見で、父・義行氏(右)と握手。(2021年/東京) 【フォート・キシモト】

21年間の競技生活、本当にお疲れさまでした。今のお気持ちとしては、安堵感が強いという感じでしょうか。

現役引退したことに対する安堵感よりも、今は所属する「いちご株式会社※」のウエイトリフティング部のコーチという与えられた仕事がありますので、それをどういうふうにやっていこうかという気持ちのほうが強くて、まだほっとはできていない感じです。ただ21年間ずっと、誰よりもサポートしてくれた父(三宅義行氏。1968年メキシコオリンピックではフェザー級で銅メダルを獲得した元ウエイトリフティング選手)には少し休んでほしいなと思っています。でも、私がまだ現役引退後の道をしっかりと歩めていないので、まだ支えてもらっている状況です。

※いちご株式会社 : 総合不動産サービス業と、太陽光発電所、風力発電所等のクリーンエネルギー事業を展開するサステナブルインフラ企業。社名は、千利休が説いた茶人の心構えである「一期一会」に由来し、「人との出会いを大切に」という精神を理念としている。

改めて21年間の競技生活はいかがでしたか?

苦しいことや悔しいこともたくさんあって、泣いたこともありましたが、それも含めて楽しかったです。こんなにも夢中になれることを21年間もやれたなんて本当に幸せなことでした。私はウエイトリフティングが好きなので、体力さえあればまだまだやりたいという気持ちはありますが、もう限界が来ているので次に進まなければいけないなと思い、引退することを決めました。

幼少時代のお話をおうかがいしたいと思いますが、お母さまは音楽大学出身でピアノの先生をされていたそうですね。

子どものころは、母にピアノを習っていました。母からは早く帰宅をしてピアノの練習をするように言われていたので、中学校では最初に手芸部に入ったんです。でも、じっとしているのが嫌で体を動かしたいなと思っていました。窓から校庭でテニス部の人たちが楽しそうに練習しているのが見えて、いいなと思ったんですね。それで1年で手芸部を辞めて、2年生から1年半、テニス部に所属しました

2歳のころ 【本人提供】

ピアノとテニスをしていた三宅さんが、なぜウエイトリフティングを始めることになったのでしょうか?

中学3年生の時、進路をどうしようかすごく悩んでいたんです。私自身、何に対しても中途半端で長続きせず、とにかくピアノは自分には向いていないというのはわかっていました。もちろん弾けるようになった時は楽しいと感じていたのですが、当然、また次の新しい曲を練習しなければならず、その繰り返しがすごく嫌で「やめたいな」と思っていました。そんな時に目にしたのが、中学3年生の秋に行われた2000年シドニーオリンピックでした。
母に「オリンピックを応援しようよ」と誘われ、あまり気乗りはしなかったけれどテレビの前に座って中継を見ました。スポーツの世界はあまりよくわからなかったのですが、オリンピックで選手たちの戦う姿に感動しました。女子のウエイトリフティング競技では、シャフトがしなり、女性でもこれだけできるんだと心を鷲掴みされ、私もやってみたいと夢が膨らむ思いでした。

なぜテニスではなかったのでしょうか?

実はテニス部に入ったと言っても、練習に行ったり行かなかったりで、それほど夢中になってやっていたわけではなかったんです。もちろん、実際にボールを打っている時は楽しかったのですが、そこまでのめりこむということはありませんでした。それもあって、「自分にも何か夢中になれるものが欲しい」とずっと思っていました。周りの友だちが夢や目標を持ってがんばっている姿をすごく羨ましく見ていたんです。そういう部分で、すごく自分に劣等感を感じていました。そんな時に見たオリンピックの世界に憧れた、というのが最初のきっかけでした。

数字で成長がわかる部分に感じた競技の魅力

ウエイトリフティング女子が初めて正式種目となったシドニーオリンピック53kg級で7位入賞を果たした仲嘉真理選手(2000年/シドニーコンベンションセンター) 【フォート・キシモト】

奇しくも2000年シドニーオリンピックで初めて女子のウエイトリフティングがオリンピックの正式種目として採用されました。また、三宅さんにとってはお父さまの存在も影響があったのではないでしょうか。

父の現役時代のことはあまり知りませんが、2人の兄がウエイトリフティングをやっていて、幼少時代には両親に連れられて試合を見に行っていたので、ウエイトリフティングのことは知っていました。ただ、兄がやるのを見ていても、当時は何が面白いのかまったくわかりませんでしたし、絶対やりたくない競技でした。でも、のちのちになって振り返ってみると、自分が幼少時代に見ていたからこそ、入りやすかったのだと思います。

ほかの競技には関心を持たずに、最初からウエイトリフティングの一択だったのでしょうか?

細身ではない自分の体形を考えた時に、選択肢としては、レスリングか柔道か、ウエイトリフティングかなと思っていました。ただレスリングと柔道は、幼少時代からやっていないとハンデがあるなと。その点、ウエイトリフティングはほとんどの人が高校からスタートしているので、「これだったら今から始められるかな」と思いました。それと、父がこの競技の先駆者でもあり、メダリストでもあったので、「自分でもできるんじゃないかな」と、今考えればとても安易な気持ちで始めたんです。でも、逆に言えば、よくわかっていなかったらこそ、飛び込めたということもありました。

メキシコシティオリンピック・フェザー級で銅メダルを獲得した父・義行氏(1968年/テアトロ・デ・ロス・インスルヘンテス) 【フォート・キシモト】

ご両親からは反対されたそうですが。

父も母も、驚いていました。最初、私が長男に「ピアノをやめてウエイトリフティングをやろうと思う」ということを相談したら、言い出せない私に代わり、兄が母に伝え、父にと伝わっていきました。“三宅家の一大事”ということになって家族で話し合いが行われました。母はすごく寂しそうにしていて、父は半信半疑というところがあったみたいです。父から3カ月様子を見て「途中で逃げ出さない・投げ出さない」「やるからにはオリンピックでメダルを獲る」という2つの条件を言い渡されました。「この2つを守れるんだったら、がんばってみなさい」と。自分から何か目標を持ってやってみたい、と思えたのはウエイトリフティングが初めてでした。だからこそ最後までやり通せたのだと思います。父には「自分からやろうという気持ちがなければ、スランプが来たときに自分でそれを乗り越えることができない。人からやらされたものでは長続きしない」という考えがあったので、しばらくは本当にやるのか、様子を見ていたようです。次男は、お父さんがメダリストだから、子供は出来て当たり前のように見られる。そんな思いを妹にはさせたくないと反対しました。次男が来るときは母と二人で、シャフトを隠したりしていましたが、ある時急にやって来て、シャフトが見つかってしまい、母が「お父さんはもう歳だから、家で鍛えてるの」ととっさに嘘をつきましたが、「これは女子のシャフトだよね」と、とうとうわかってしまいました。しかしながら私が全日本選手権で優勝すると、「もう認めるよ。これからは協力するからがんばれ」と応援してくれるようになりました。

始めてすぐに記録も出たのでしょうか?

私自身はあまりよく覚えていないのですが、初めてバーベルを持った時、父が高校時代に初めて挙げた記録42.5kgを、まだやり始めたばかりの私がひょいっと持ち上げてしまった、というようなことがあったようです。でも、それは父の話術のうまさでもあったと思います。ほめて育てると言いますか、父にほめられると嬉しくなって「もしかしたら私には才能があるかもしれない。じゃあ、もっとがんばろう」という気持ちになりました。またほめられることで、ウエイトリフティングが楽しいと思えたことも大きかったなと思います。もちろん競技スポーツの厳しさも教えてくれたのですが、最初にウエイトリフティングの楽しさを教えてくれたことで、私も意欲的に取り組めたのだと思います。

次兄の敏博氏(左)が出場した大会で 【1995年/自衛隊体育学校D体育館】

続けていくなかで、三宅さんご自身はウエイトリフティングにどんな魅力を感じたのでしょうか?

今、自分がどれくらいなのかということがはっきりと数字で示される部分に魅力を感じました。1キロでも更新すると、すごく嬉しくて「もっと強くなりたい」と思えたんです。目に見える形で成果がわかるのは、時には残酷でもありますが、それでも自分の成長がはっきりとわかるので、そこにやりがいや魅力を感じました。

とはいっても、やはりトレーニングは厳しかったのではないでしょうか。

トレーニングはきついし、苦しいですが、それでも楽しいと思えたんです。ずっと憧れていた「夢中になれるもの」を見つけられたことが、やっぱり嬉しかったのだと思います。それと、ほかに余計なことを考える隙を与えないくらい練習メニューが多かったので、無心になってひたすらウエイトリフティングと向き合うことができました。

相当ストイックな世界ですよね。

最初は基礎体力もないところから始まったのですが、いつも父から言われていたのは「やりもしないで、最初から無理と決めつけるのはだめ。まずはやってみる。そこからだんだんとうまくなっていくから」ということでした。だから最初は懸垂も1回もできなかったのが、毎日毎日父にサポートしてもらいながら練習を積み重ねていったら、1回できるようになって、それが2回、3回と増えていきました。できなかったことが、努力することによってできるようになる。そういう自分の成長を体で感じることがすごく面白いと思えました。

未熟さを突き付けられたアテネと北京

初出場を果たしたアテネオリンピック(2004年/ニケア・オリンピック・ウェイトリフティング・ホール) 【フォート・キシモト】

高校1年生の時には、全国高校女子選手権の53キロ級で優勝されていますね。

初めてバーベルを触った時は、とても持ち上げられるような重さではなかったので、「オリンピックの道はとても遠いな」と思いました。そうしたなかで自分が目標とするトップ選手が身近にいて、その選手の練習を見たり、教えてもらいながら練習に励んでいましたが、そんななか高校1年生でいきなり全国優勝し、訳がわからなかったというのが正直な感想でした。始めてすぐに勝ってしまったので、もちろん嬉しいという気持ちはありましたが、「あれ?本当なの?」と実感がわかなかったんです。

簡単に勝ってしまって、拍子抜けしたところはなかったのでしょうか。

高校で一番になったのなら、今度は大学やその上の選手たちに追いつきたいという新たな目標ができたので、モチベーションはすごく上がりました。

一つひとつステップアップしていくなかで、法政大学入学の年の2004年にアテネオリンピックに初出場されました。

その前年、高校3年生の時に全日本選手権の53キロ級で初優勝することができました。ただ当時、もうひとり国内トップの選手がいて、その方がケガをして全日本を欠場したんです。それもあって、幸運にも私が優勝することができ、記録的にも良かったので「もしかしたら翌年のオリンピックに行ける可能性があるかもしれない」と、そこで初めて実現の可能性を感じました。2004年アテネオリンピック出場が決まった時は、ウエイトリフティングを始めて4年目で夢が叶い、心の底から「嬉しいな」と思いました。「4年前にバーベルを持った時には、まだまだ先のことだと思っていたのに、4年目で夢の舞台に行けるなんて」と感極まるものがありました。

実際に出場してみて、オリンピックの世界というのはどういうものでしたか。

全くの別世界でした。ふだん日本国内で開催されるウエイトリフティングの大会は、観客は少ないんです。ところが、オリンピックとなると、会場が満員になるわけです。そんな舞台をそれまで一度も経験したことがなかったですし、世界中から注目され、日本からも皆さんが一丸となって応援してくれて、「ああ、これが4年に一度の世界最高峰のイベントなんだ」と思いました。一方で父からは「気持ちが高まってしまうけれど、しっかりと地に足をつけて冷静な気持ちでいなくてはいけないよ」というアドバイスをもらっていました。当時、ウエイトリフティングの日本女子代表は私ひとりだったので、心細さがありました。それと実は出場枠を確保するために、オリンピック前の3カ月の間に3 試合も出場しなければならず、体力的には厳しいものがありました。またケガをしていたということもあって、結局2004年アテネオリンピックでは実力を出すことができずに9位という結果に終わりました。初めて4年に一度の本番にピークを合わせることがどんなに難しいかを感じました。自分の未熟さを痛感し「メダルを獲るにはまだまだ遠いな」と現実を突きつけられた大会でした。

高校1年で初めて出場した全国高等学校女子ウエイトリフティング競技選手権大会で優勝。(2002年/石岡市運動公園体育館) 【本人提供】

2008年北京オリンピックの時には、メダル獲得に大きな期待が寄せられていました。

2008年北京オリンピックまでの4年間はまだまだ未熟で、気持ちはあるのにオリンピックに向けての行動が伴っていませんでした。「メダルをめざします」と大きな夢を語るものの、体重調整のミスをしたり、練習の質を上げようとしても、予定していた日に調整不足で上げることができなかったり、ケガで練習ができなかったりと、自己管理ができていませんでした。また体重に関しては減量の経験から、逆に増量することに恐怖心を抱くようになり、練習に必要なエネルギーが摂れなくなっていました。ですから、すぐに空腹を感じて練習に100%集中していないというような状況が多くありました。そうしたなかで迎えたのが北京オリンピックだったのですが、当日の体重コントロールに失敗をして予定よりも体重を落としてしまった状態で本番に臨み、力を発揮することができませんでした。ふだんたくさんの人からサポートしてもらっていますが、最後に舞台に立つのは自分ひとり。その自分のメンタルがしっかりしていなければ、本番で実力を発揮することはできないんだということをひしひしと感じた大会でした。でも、北京オリンピックでの悔しさがあったからこそ、その後につながったのだと思っています。

2008年北京オリンピックでは4位(大会終了時は6位だったが、その後、上位選手のドーピングが発覚したことにより繰り上がった)とメダルにはあと一歩届きませんでした。メダルを手にするか否かで差を感じた大会でもあったのではないでしょうか。

やっぱりオリンピックは出場するだけではなく、メダルを獲得しなければいけないんだということを強く感じました。それまで父に何でも教えてもらい、レールを敷いてもらっていましたが、そこから先は自分が努力しないといけないんだということを2008年北京オリンピックでは学びました。

2008年北京オリンピックではメダル獲得が期待されていただけに悔しかったと思いますし、それを次にぶつけていこうというお気持ちで2012年ロンドンオリンピックに向かっていったわけですね。

北京オリンピックで感じた悔しさや自分への怒りみたいなものが、自分自身を変える原動力になりました。「今変わらなければ、これで終わる」と本気で思ったので、変われるチャンスを与えてもらったと思っています。

4位入賞を果たした北京オリンピック(2008年/北京航空航天大学体育館) 【フォート・キシモト】

12年越しの夢が叶ったロンドンオリンピック

銀メダルを獲得したロンドンオリンピックでの試技(2012年/エクセル展覧会センター) 【フォート・キシモト】

2008年北京オリンピック後、“プチ家出”というか、ひとりで沖縄に行かれたそうですが、どんな理由からだったのでしょうか?

怪我続きで練習がまともにできず、それがストレスになっていました。父は毎日送り迎えとつきっきりの指導をしてくれているのに、「こんな練習しかできないなんて」という心苦しさが積もり積もってしまって・・・・・。とにかく、ひとりになりたいと思いました。それで最初は京都のお寺にでも行こうかな、と思いましたが、練習しないと自分に返ってくることはわかっていたので、このまま一時の感情で逃げ出したら悔やまれるだろうなと思いました。その時に思いついたのが、沖縄でした。沖縄には毎年、家族で合宿に行っていて、自炊しながら練習ができるという場所でしたので、「あそこに行こう」と。ただ黙っていなくなると、あとで大変なことになると思い、母にだけは話しました。父には長文の手紙を書き、その翌日、ひとりでひっそりと沖縄に旅立ちました。

ひとりになってみて、いかがでしたか?

朝起きて、ご飯をつくった時に、「ご飯をつくるってこんなにも大変なんだ」と母への感謝の気持ちがわきました。毎日の練習も、いつもなら父がさりげなくサポートしてくれるのですが、その父がいないというだけで不安になり、父がいるのといないのとでは、こんなにも大きな違いがあるんだということも感じました。ただ父がいなかったからこそ、自分自身で練習に対して突き詰めて考えることもできましたし、「こんなにもひとりでは何もできないんだな」という自分の未熟さも知ることができました。その1週間後には全日本の合宿が予定されていて、4、5日中には帰らなければいけなかったので、いい意味で気持ちを整理して帰ることができました。私にとっては、気持ちの部分でとても大きな転換点の旅だったと思います。

3回目の出場となった2012年ロンドンオリンピックは、ご自身にとってどんな大会となりましたか?

オリンピックで2回失敗をして、3回目でしたので、今度こそは力を発揮したいという強い思いがありました。過去2大会で経験したことを紙に書き出して、「この弱さをプラスに変えることができれば、どんな結果でも納得のいく大会になるはずだ」と思って、後悔のないように1日1日を大切にしながら過ごすように心がけていました。そうしていくうちに、欠点だった部分がプラスになった時、記録が伸び始めたんです。「まだ自分はできるんだ」と思えて、ウエイトリフティングを楽しめるようになっていきました。競技を始めて10年くらい経つ時期でしたが、心技体が一番充実できていたと思います。2004年アテネ、2008年北京でのオリンピックに比べると、自己管理も少しずつできてきたかなという時期に迎えたのが2012年ロンドンオリンピックで、その結果が銀メダル獲得につながったのだと思います。

銀メダルを獲得したロンドン大会(2012年/エクセル展覧会センター) 【フォート・キシモト】

2012年ロンドンオリンピックでは見事に銀メダルを獲得され、「親子二代でのメダル」と大きな話題となりました。メダル獲得が決まった時は、どんなお気持ちでしたか?

最初に父と約束をした「メダル獲得」という目標を達成するのに12年かかったので、それだけの時間がかかったからこそ、とても嬉しかったです。「やっと叶えることができた」と、素直に喜びしかなかったです。

表彰台からの景色は、いかがでしたか?

とてもいい景色でした。「なんて見晴らしがいいんだ。これがメダリストたちが見る光景なんだ」と思いました。2004年アテネオリンピック、2008年北京オリンピックで負けた時は、テレビで表彰台に立つメダリストたちの姿を見て「自分もいつかはここに立ちたいな」という思いを馳せながら4年間という長い時間を積み重ねてきたのですが、いざ表彰台に立って思ったのは「夢が叶う時間というのは、本当に一瞬のことなんだな」と思いました.。

銀メダルを手に、コーチを務めた父・義行氏(右)と。(2012年/エクセル展覧会センター) 【フォート・キシモト】

連覇の難しさを体感したリオデジャネイロまでの4年間

銅メダルを獲得したリオデジャネイロオリンピック。競技終了後バーベルを抱きしめる。(2016年/リオ中央体育館) 【フォート・キシモト】

2012年ロンドンオリンピックで12年越しに目標が達成されたわけですが、その後はどういうお気持ちで次に向かっていったのでしょうか?

2012年ロンドンオリンピックでは銀メダルでしたので、その上の金メダルをめざしてという部分では、実力的にも「まだ自分は上にいける」という気持ちがありました。一方で、メダル獲得という部分では目標が達成されてしまったので、なかなかモチベーションが上がりませんでした。自分としては金メダルをめざしてやりたいと思っているのに、気持ちが上がってこず、自分でも「あれ、どうしちゃったんだろう」という感じでした。今思えば、ロンドンオリンピックでメダルを獲ったことによって、その後、日常が変わってしまったことがひとつ大きかったかなと思います。2016年リオデジャネイロオリンピックに向かうなかではケガをすることも多くなってしまって、思うように練習ができなかったことも少なくありませんでした。それでも「早くベストな状態に戻したい」という気持ちばかりあった4年間でした。

年齢を重ねていくにつれて、体調のコントロールも難しくなっていったのではないでしょうか。

2012年ロンドンオリンピックから2016年リオデジャネイロオリンピックに向けては、体の疲労が取れにくくなったり、ケガが治りにくくなったりということを感じました。「ロンドンオリンピックであれだけのパフォーマンスができた自分はまだできるはずだ」と信じていた反面、うまくいかないことが多くなっていったんです。それでも父が「どんな時もできることをがんばりなさい」と言ってくれたり、迷っている時には「こういう練習がいいんじゃないか」とか「オーバーワークになっているから、少し抜きなさいよ」というようなフォローをしてくれました。

リオデジャネイロオリンピック終了後に銀座で行われたパレードにて(2016年/東京) 【本人提供】

お父さまとぶつかることはなかったのでしょうか?

ウエイトリフティングを始めて8年間くらい、2008年北京オリンピックあたりまではよくぶつかることがあったのですが、私が自分自身で積極的にやるようになってからは、父が私をすごく尊重してくれたので、たとえ失敗したとしても前のように叱らなくなったんです。父はオリンピックでメダルを獲るということが実体験としてわかっていて、必要な時に的確なアドバイスをしてくれることは心強く感じていました。自分の父親ながら、偉大な指導者だなと思います。

苦労の連続だった4年間の末に2016年リオデジャネイロオリンピックでは、2大会連続でのメダル(銅)を獲得しました。

2012年ロンドンオリンピックで銀メダルを獲った時とは、また違う嬉しさがありました。やっぱり4つ年齢を重ねたなかで、連続でメダルを獲ることがどんなに難しいかを身をもって知りました。ロンドンオリンピック直後は、「まだまだ自分はいける」と自信を持っていましたが、4年でこんなにも体のさまざまな機能が落ちるんだな、うまくいかなくなるものなんだな、と。そう考えたら、何大会も連続でメダルを獲るなんて並みのメンタルではとてもできません。そういう選手たちは本当にすごいなと思いました。

2016年リオデジャネイロオリンピックの時は30歳。重量挙げという競技の特性を考えると、ベテランに入っていたと思いますが、引退は考えていなかったのでしょうか?

年齢的には、引退を考えるには切りがいいと思っていました。ただ、すでに東京オリンピック・パラリンピックの開催が決定していましたので、やっぱり自国開催のオリンピックには出たいな、という欲が出てきたんです。それが年齢的には相当厳しいということは、父はよくわかっていました。でも、私自身はもし少しでも可能性があるのならトライしたいと思っていました。挑戦せずに引退して東京オリンピックを迎えたら、「出たかったな」と必ず後悔をすると思ったんです。後悔するよりはトライしたいと思いましたし、応援してくださる人たちがいる限りはがんばりたいという気持ちがあったので、東京オリンピックをめざすことに決めました。

限界を超えていたことを知った東京2020オリンピック

最後となった東京2020オリンピックの試技。(2021年/東京) 【フォート・キシモト】

本来は2020年に開催するはずだった東京オリンピック・パラリンピックは、新型コロナウイルス感染症拡大の影響を受けて1年延期となりました。2020年3月24日にIOC(国際オリンピック委員会)から延期が発表された際は、どのように受け止められたのでしょうか?

「オリンピックまであと●カ月」というように、いつもカウントしていたので、開幕4カ月前にして延期となった時は、喪失感がありました。「開幕が1年も延びるのかあ」と一度、気持ちが切れてしまって、「今日は練習を休みたいです」と言ったんです。そしたら、父は「だめだ」と。「いつ開催されるかわからないからこそ、今しっかりと準備をしておくことが大事だよ」と言われて仕方なく練習に行ったのですが、実際に練習をしていたら「ああ、やっぱりウエイトリフティングって楽しいな。今日、練習に来て良かったな」と思いました。
しっかりと気持ちを切り替えるには、しばらく時間がかかったのですが、「決まったことは仕方ないのだから自分がやるべきことをやっていこう。逆に1年延びたのだから、しっかりと心と体を休ませることもできるな」とプラス思考で考えられるようになりました。それまでは結構追い込んでしまっていたので、リフレッシュする時間が必要だったんです。もちろん1年経てば、それだけ年齢的には体力が落ちますが、心と体を休ませられる余裕ができたことのほうが大きいなと。それと1年長く若い選手たちと一緒にトレーニングできるのは嬉しいことだなとも思いました。後輩たちがいてくれたからこそ、「私も最後までかっこいい姿を見せたい」という思いがわいてきて、がんばれたというところがありました。また、心が折れそうになるたびに、必ず誰かが連絡をしてくれたんです。私って本当に周りに支えられているな、と思うことがすごくたくさんありました。せっかく与えてもらった1年を無駄にせず、1日1日を大切にしていこうと思って日々を過ごしていたら、あっという間に1年が過ぎて、東京オリンピックの開幕を迎えたという感じでした。

三宅さんにとって5回目となった東京オリンピックでは、初めて記録なしという結果でした。それでも、三宅さんの表情はとてもすっきりしていたように感じられました。

メダルを取れず、結果も記録なしで終わったことについては、やっぱり悔しさはありました。ただ、あの時は「やっと終わった」という解放感のほうが大きかったですね。「なんとかメダル獲得というところまで戻したい」という気力はあったのですが、毎日体が痛くてケアに追われていた状態だったんです。そんな満身創痍のなかでも、やれることはやって臨んだ大会でしたので、「これが今の自分のすべて」という気持ちで、すっきりしていました。と同時に、「体力的にも精神的にも、自分の限界はとっくに超えていたんだな」ということも感じました。本当はかっこよく終われれば良かったんですけどね。後輩たちに対しても、かっこ悪い姿で終わってしまったのはちょっと悔しかったです。
強い姿で終えられればベストだったとは思いますが、あのように人間は誰しもが年齢を重ねるにつれて衰えていくという姿を見せられたことも、後輩たちがどう受け止めるかはわかりませんが、意味のあることだったんじゃないかなと思っています。

東京2020オリンピックの直前練習。 【2021年/ナショナルトレーニングセンター】

コロナ下で開催された東京オリンピックは、アスリートの目から見て、いかがでしたか?

まずは、大変な状況のなかで開催をしていただいたことに感謝したいと思いました。また、たくさんのボランティアの方がサポートしてくださって、「自国開催だと、こんなにも心強く、安心できるものなんだな。いつも通りの調整をして本番を迎えられるって本当にすばらしいな」と思いました。残念ながら無観客となり、会場での声援はありませんでしたが、それでも画面を通してたくさんの方々が応援してくださっていましたし、これはこれで新しい応援スタイルとして良かったんじゃないかなと思います。

アスリートに不可欠な指導者との出会い

長年にわたり指導を受けた父・義行氏(左)と。 【本人提供】

2021年11月18日の記者会見で現役引退を表明されましたが、今後についてはどのように考えていますか?

これから自分がどういう道をたどっていくのか、もともとが飽き性なところがあるので、自分がウエイトリフティングをやっていた時と同じように情熱を捧げられるものが見つかるかなと、今は不安のほうが大きいですね。ただ、所属する「いちご株式会社」のウエイトリフティング部コーチという与えられた仕事がありますので、私自身もちゃんと指導者として成長していかなければいけないと思っています。基本的には監督がつくる練習メニューにそってやっていくのですが、そのなかでコーチである私は、選手を知ったうえでちょっとした変化も見逃さないように、まずは観察するところから始めたいと思っています。

アスリートにとって、指導者とはどんな存在なのでしょうか?

心強い存在だと思います。オリンピックに行けるか行けないかは、選手自身の素質もありますが、その能力をどこまで引き上げられるかは指導者の役割でもあると思います。そういう意味では、私が5回もオリンピックに出場し、2つのメダルを獲得することができたのは、間違いなく父というすばらしい指導者のおかげです。どんな指導者と出会うかは、アスリートにとって競技人生のターニングポイントでもあると思いますので、重要な存在だと思います。

指導者であるお父さまからどんなことを教わったでしょうか?

数々の名言をもらっているのですが、よく言われたのは「今日よりも明日、明日よりも明後日のほうが良くなるよ」という言葉です。「だからできないことを探すのではなく、今できることを精一杯やりなさい」と言われました。最初、私はできないことを探すことのほうが多くて、「私ってできないことばっかり」と自己嫌悪に陥っていたんです。でも、できることを探すと、気持ちがすごく前向きになれました。できることに集中するので、マイナスなことは忘れてしまうことができたんです。夢中になって集中する時間はとても必要で、何をするにもそれがベースになっていたと思います。

それをベースにして、これからは指導者の道を歩んでいかれるわけですね。

時間はかかるかと思いますが、10年後、20年後には、指導者らしくなっているといいなと思います。

指導をするうえで、どんなことが大切だと思いますか?

ウエイトリフティングをするうえで、その楽しさを教えてくれたのが父でした。そういう存在は、子どもたちにとってはとても大切だと思います。たとえば今、現役生活を終えてから英語の勉強をしているのですが、まだ楽しさがわからず面白く思えていないんです。おそらくウエイトリフティングみたいに楽しさがわかれば、自分からどんどん勉強するようになると思うのですが、英語に関してはまだそこまでいっていません。また、ウエイトリフティングでは父が的確なアドバイスをしてくれて、サポートしてくれたことも大きかった。楽しさを教えること、根気よくサポートすることが指導には必要だと思います。

現役時代からが重要な“将来への準備”

当日のインタビュー風景。(2021年/東京) 【フォート・キシモト】

現役の最中、2018年には筑波大学大学院の人間総合科学研究科に進学し、2021年3月に修士課程を修了されました。なぜ、大学院に行こうと思ったのでしょうか?

自分を変えたいと思ったんです。競技の記録をもっと伸ばすという意味でも、このままの自分では前には進まないなと思ったのがきっかけでした。もっと強くなりたいからこそ、常に変化を求めていこうと。2012年ロンドンオリンピックに向けては自分で体調管理もできるようになったなかでの銀メダルという結果だったのですが、2016年リオデジャネイロオリンピックに向かうにあたっては、「これがあったから、こういう結果がもたらされた」という明確なものが見つからなかったんです。そのなかで東京オリンピックに向かうにあたっては「このまま同じことをしていても進歩はないな」と思いました。それで大学院に行って学んでみようと。また現役引退後のことを考えても、それからの人生のほうが長いので、その時のためにも大学院に行って新しい知識を学びたいなと思いました。

どんなことを専攻していたのでしょうか?

山口香先生(1988年ソウルオリンピック公開競技柔道女子52キロ級銅メダリスト。現役引退後、筑波大学女子柔道部監督、全日本柔道連盟女子強化コーチを歴任し、2000年シドニーオリンピック、2004年アテネオリンピックでは日本代表チームのコーチを務めた。JOC理事も歴任。現在は筑波大学で教鞭をとっている)が担当教授の「スポーツマネジメント領域」を専攻しました。それまでに経験したオリンピック4大会での自分自身の心技体を自己分析するというテーマで研究し、修士論文を書きました。
自分を客観的に分析するのは、とても難しかったですね。でも、きちんと過去の自分を振り返ることによって、どこがピークだったかが改めてわかりましたし、「こういう時期に、こういうトレーニングをしたら効果的なのかな」ということなど、いろいろと知ることができました。

公開競技として実施されたソウルオリンピックで銅メダルに輝いた山口香選手。(1988年/奨忠体育館) 【フォート・キシモト】

現在はJOC(日本オリンピック委員会)のアスリート委員・IWF(世界ウエイトリフティング連盟)のアスリート委員でもあり、今後は日本ウエイトリフティング協会など組織人としての活動も期待されます。

いろいろと挑戦していきたいとは思っています。今まではアスリートという部分で視野が狭いなかでやってきたので、これからは「森を見る」ようにして広い視野で物事を見ながら、勉強していきたいと思っています。

アスリートのセカンドキャリアについては、どう思われていますか?

アスリートでいられる時間は短く、その後の人生のほうが長いからこそ、アスリートのうちからオリンピックがゴールではなく通過点として、その先、現役を引退してから自分が何をしたいかということを考えていくことが必要なのかなと思います。オリンピックをゴールにしてしまうと、そこで燃え尽きてしまいますし、そこから目標を探すというのは大変だと思うので、現役のうちにこの先何をしたいのかを考えて準備をしていくことが大事だと思います。練習をするだけでなく、人との輪を広げるなど、現役時代にやることを少し増やしていきながら、その後のキャリア形成ができるようになるといいのかなと思います。

スポーツの役割という部分では、どのように思われていますか?

経済などさまざまなことを動かす原動力になるものだと思います。私自身もスポーツを通して「がんばりたい」という夢ができましたし、いろいろな選手ががんばる姿を見て、「もっとがんばらなくちゃ」という気持ちになりました。そうした前に進む力を与えてくれるのが、スポーツの大きな力だと思います。

オリンピックとパラリンピックとの関係性については、いかがでしょうか?

東京オリンピックが終わったあとに、東京オリンピック・パラリンピックの関連イベントに参加させていただいたのですが、パラリンピック選手のお話を聞いて、私自身も「がんばらなくちゃ」と刺激をいただくことが多かったです。2019年にはナショナルトレーニングセンターとしてパラリンピック競技向けの施設「屋内トレーニングセンター・イースト」がオープンしましたし、オリンピック選手とパラリンピック選手の距離がだんだんと近づいてきているように感じています。お互いに刺激し合いながらということが、今後は普通になっていくのではないでしょうか。

後輩や子どもたちには、これからどんなことを伝えて、何を残していきたいと思っていますか。

思いやりと礼儀はどんな人にも必要で、それが生きていくうえでのベースになる部分だということ。自分のことだけではなく、相手のことも気遣える、広い視野で思いやりが持てる人たちが増えていくといいなと思っています。またすばらしい先輩たちが遺してきたものがあると思うので、すべてを新しくするのではなく、変化しながら古くても良いものは遺していけたらいいなと思います。
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笹川スポーツ財団は、「スポーツ・フォー・エブリワン」を推進するスポーツ専門のシンクタンクです。スポーツに関する研究調査、データの収集・分析・発信や、国・自治体のスポーツ政策に対する提言策定を行い、「誰でも・どこでも・いつまでも」スポーツに親しむことができる社会づくりを目指しています。

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