小谷実可子JOC理事インタビュー 未来につなげるべき世界に誇れる”東京モデル”

笹川スポーツ財団
チーム・協会

【フォート・キシモト】

アーティスティックスイミング(旧シンクロナイズドスイミング)の象徴的存在として、現役時代から高い人気を誇る小谷実可子さん。1988年ソウルオリンピックではソロ、デュエットで2つの銅メダルを獲得しました。

1992年バルセロナオリンピック後に現役を引退すると、長野、大阪、東京とオリンピックの招致活動に携わり、発信力のある女性オリンピアンのパイオニア的存在として活躍。東京2020オリンピック・パラリンピックでは選手村副村長、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会スポーツディレクター、ジェンダー平等推進チームヘッドを務め、コロナ禍での開催実現に大きく貢献されました。

重責を担った小谷さんの目には東京2020オリンピック・パラリンピックはどんなふうに映ったのか。そして、今後の大会やアスリートのあるべき姿についてうかがいました。


聞き手/佐野慎輔
文/斉藤寿子
写真/フォート・キシモト
※本記事は、2022年2月に笹川スポーツ財団ホームページに掲載されたものです。

ソウルオリンピックで2個の銅メダルを獲得。(1988年/蚕室第一水泳場) 【フォート・キシモト】

2012年ロンドン大会を機に変わったアスリートの意識

インタビュー当日の様子。(2021年/東京) 【フォート・キシモト】

小谷さんは、2016年大会の招致からずっと東京オリンピック・パラリンピックに関わってこられました。それだけに、今回の東京オリンピック・パラリンピック開催は感慨深いものがあったのではないでしょうか。

新型コロナウイルス感染症に打ち勝ったのかと問われれば、その答えを私が結論づけることはできません。組織委員会の橋本聖子会長がおっしゃっていた通り、その答えは世界の人々や、あるいは歴史が結論を出すものだと考えています。ただ、安全な形で予定していた競技をすべて実施できたこと、そして本当に多くの海外のアスリートたちから「日本だからできたんだ」「日本にしかできなかった」というような賛辞の言葉をいただいていることを考えると、少なくとも日本人の力を示すことができたのではないかと思っています。
2016年大会の招致からすると、東京大会までは長い道のりだったと思います。その中で、東京2020オリンピック・パラリンピックへの意識というのは、どのように変化していったのでしょうか。

私は1992年のバルセロナオリンピックの後に現役引退し、その後にJOC(日本オリンピック委員会)や2016年大会の招致委員会などで、国際関係も含めスポーツの幅広い分野で活動をしてきました。活動の範囲が日本の外に広がれば広がるほど、「日本は何て素晴らしい国なんだろう」という思いが強くなっていったんです。日本人は約束事は守ろうという気持ちが自然と身についていますし、人に親切にしたいという"おもてなし"の心も持っています。また、安全で平和な日常が普通にあるわけです。

こんな素晴らしい国でオリンピックを行えたら、どんなに素敵だろうと常に思っていました。自分の中でその気持ちに火が点いたのが、2003年に青森県でアジア冬季大会が開催された時のことでした。OCA(アジアオリンピック評議会)アスリート委員長として同大会の選手村になっていたホテルを視察に訪れた際に、ホテルのスタッフの方の選手の行動する時間帯にあわせて対応される姿に接し、「このようなおもてなしを世界の選手たちにできたら」と、オリ・パラ開催に対する具体的なイメージを持ったんです。

2016年招致で敗れた後の小谷氏(中央)。(2009年/コペンハーゲン) 【フォート・キシモト】

2016年招致の時は、アスリート委員長として活動をしていても、アスリートの中で自国開催への意識は決して高くはありませんでした。結局、2016年大会は落選。現地に行ったアスリートが集まって話し合いをした際、「せっかく盛り上がったオリンピック・パラリンピックムーブメントの灯を絶やしたくないですよね。なんとか次の招致に向けて頑張っていきましょう」という意見で一致したんです。
2020年大会の招致に再トライをしようとする中、2011年3月11日に東日本大震災が起こりました。その直後は「オリンピック・パラリンピックの招致をしている場合ではないだろう」という意見もありました。

ただ被災地を訪ねると、自分たちが被災地の子どもたちに元気になってもらいたいと思って行ったはずなのに、逆に「オリンピック、ぜひ頑張ってください」と励まされたことがよくありました。そういう中で、「やっぱりスポーツは元気を与えてくれるよね」というような雰囲気が出てきて、2012年ロンドンオリンピックでは日本選手団が史上最多となる38個のメダルを獲得、オリンピック後に行われたメダリストの銀座パレードには、およそ50万人もの人々が沿道に詰めかけました。それが多くのアスリートたちの意識を変えたきっかけになったのだと思います。2020年大会の招致活動では多くのアスリートたちが、招致活動に応援や協力をしてくれました。

ロンドンオリンピックの後、銀座で行われたパレード。(2012年/東京) 【フォート・キシモト】

私も2016年大会の招致活動の時とは、勢いが違うことを感じ、2013年IOC総会でのプレゼンテーションでは、日本人がおもてなしの心を持って世界のアスリートや人々をお迎えすることをお約束したわけです。
いざ大会が近づくと、新型コロナウイルス感染症という当時はまったく予想していなかった敵が現れ、感染症の拡大を防ぐ対策として、海外からの入国者やアスリートを外部と遮断する「バブル方式」※を取らざるを得なくなりました。それで選手村や競技会場など大会管轄下での陽性率は0.03%に抑えることができたわけですが、歴史上初めて1年延期、コロナ禍という厳しい事態のなかで無事に大会をやり終えることができ、携わった者の一人として安堵の思いでいっぱいです。

※バブル方式:感染拡大防止策の一つで、国際的なスポーツ大会で、選手や関係者を隔離し、外部と接触させない方式。泡(バブル)の膜で取り囲むように、内部と外部を遮断することからの名。

2020年招致決定を喜ぶ小谷氏(中央)。(2013年/ブエノスアイレス) 【フォート・キシモト】

コロナ禍での開催に向けて続いたいばらの道

スポーツディレクターとして各競技会場を回る小谷氏(中央)。(2021年/東京アクアティクスセンター) 【フォート・キシモト】

東京オリンピック・パラリンピックが1年延期となる中、2020年10月1日付でスポーツ庁長官に就任した室伏広治氏の後任として、組織委員会のスポーツディレクターに就任しました。大変重い任務だったと思いますが、引き受けようと思った理由は何だったのでしょうか。

打診があったのは、9月の最後の金曜日でした。週明けには返事をして、すぐに発表会見をしなければいけないという状況でしたので、正直に言えば、深く考えたり迷ったりする時間はありませんでした。ただ、2016年大会の招致活動の時から長く携わってきたので、どんな形であれお手伝いをしたいと思っていました。すでに2019年には選手村の副村長に決まっていましたが、加えてスポーツディレクターとして競技運営の部分で手伝ってほしいと言われて、断る理由が自分には見当たりませんでした。大会の開催に向けてお役に立てることならばどんなことでも、という気持ちだけでお引き受けした感じです。スポーツディレクターというのは、簡潔に申し上げますと競技運営の責任者となるわけですが、前任の室伏さんの時に1年延期での大会の具体的な競技スケジュール、競技会場はすべて決まっていました。最も大変な部分は形作られていましたので、開催直前での就任でもなんとか責務を果たせるかなと思っていました。

ところが、就任後に再び新型コロナウイルスの感染が拡大したこともあって、開催への否定的な世論が広がり、日本一丸で東京大会に向かっていくという機運を高めることについてはいばらの道でした。

コロナ禍で、大会開催に否定的な意見も多く、選手もさまざまな規制を強いられました。そのなかで、スポーツディレクターとして開催することについては、どのような思いがあったのでしょうか。

安心・安全な大会でなければいけないというところが一番でしたので、開催に向けて策定された「プレイブック」(IOCとIPC<国際パラリンピック委員会>、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会が策定した新型コロナウイルス対策のルールブック)に従い、選手に対しては行動範囲を原則として選手村と競技会場、練習会場に制限したり、毎日のPCR検査を義務化するなどのルールを設けました。選手村に滞在する人数は極力少なくしたかったので、選手やスタッフは原則として競技の5日前に入村し、競技終了の2日後には退去してもらうことにしました。また、競技役員や審判員などIF(国際競技連盟)の関係者においても本当に大会開催に必要不可欠な方だけを呼ぶということになり、IFにも何度も説明をしました。ありがたいことに誰もが厳しい規則をすべて受け入れてくれました。それこそアスリートは選手村でお土産を買えたり、食堂でバラエティーに富んだご飯を食べることができましたが、IFの競技役員はホテルに缶詰め状態の中、食事もホテルによってはレストランを使用することもできず、ルームサービスのみだったりというところもありました。そうしたストレスを抱える状況でも、「世界的なコロナ禍での開催という社会的にも歴史的にも意義のある大会に、自分は競技役員としてお手伝いができることに誇りを持っている」と言ってくださったんですね。そういう言葉を聞くたびに、本当にありがたく思いましたし、そういう方々の思いに応えるためにも、何としても安心・安全な形でしっかりと開催しなければという気持ちが強くなりました。

パラリンピックに感じられた目指すべきD&I※の姿

東京2020オリンピック開会式で選手宣誓する山縣亮太選手(左)と石川佳純選手。(2021年/オリンピックスタジアム) 【フォート・キシモト】

ただ、国民の間には開催に対して不安や反対の意見も多く、不安を煽るような報道も多かったと思います。そうしたなかで、スポーツディレクターとしてご苦労が絶えなかったのではないでしょうか。

私自身が苦労したというよりも、選手たちの気持ちを考えると、見ていて辛かったですね。私がオリンピックに参加している時やメダルをもらった時というのは、本当に幸せな時間でした。それ以上に大会に向けて練習をしている時に、オリンピックが近づけば近づくほど、どこに行っても「頑張ってね」「応援しているよ」と言ってもらえたことが本当に幸せに感じられたんです。「これがオリンピックに出るということなんだな。こんなにも日本の人たちが期待して応援してくれるのがオリンピックの日本代表なんだ」ということを感じられ一番のモチベーションになったり、力になりました。

ところが、今回はそういう応援の声がないばかりか、「オリンピックに出たいと言っていいのだろうか」と悩んだり、何か言えば批判的なことを言われてしまうという不安がつきまとい、本当に辛くて苦しんだ選手も多かったと思います。選手だけではなく、組織委員会の中でも開催のために力を尽くしながら「本当にこんな時にオリンピック・パラリンピックをやっていいのだろうか」という迷いもあったと思います。選手としては参加できないけれども、運営スタッフとしてスポーツ界最高峰の大会に携われるんだと思って組織委員会に来た人が大勢いました。それなのに組織委員会のバッジも外では付けられないくらい、日々批判されながら人々に嫌われるような状況になってしまいました。それでも寝ずの作業をしていました。選手はもちろん、組織委員会や大会関係者の人たちはみんな辛い思いをしていたと思います。
東京オリンピック・パラリンピックのビジョンの一つに「多様性と調和」が掲げられました。ジェンダーや障がいの有無などによる差別について問題提起はできたかと思いますが、具体的な対応はこれからです。

私自身、「ジェンダー平等」や「多様性と調和」ということは言葉としては知ってはいましたが、それほど深く考える機会はありませんでした。組織委員会のなかでジェンダー平等の問題が起きたこともあって、改めて考える機会をいただくことができたと思っていますし、実際にどのような取り組みをしているのかを見直すきっかけにもなりました。
今回の大会では開会式での選手宣誓を男女平等にしたり、男女の混合種目も卓球の混合ダブルスや柔道の混合団体などが追加され、9種目だった2016年リオデジャネイロオリンピックの2倍の18種目に増えました。決勝もこれまでは男子が最後というのが通例だったのをバスケットボールなど、5競技は女子の決勝を最後にもっていくなど、さまざまな工夫を凝らしました。
また、表彰式でメダルやギフトを運ぶ「トレイベアラー」には、車いすや視覚障がい者の方にも務めていただくなど、世代、性別、体の特徴もさまざまな人たちがいる環境が当たり前の大会となったと思います。

東京大会開催後の2021年10月25日(日本時間)に開催された世界の国・地域のオリンピック委員会の会合で橋本会長が「東京モデル」として、東京開催で見出された価値を今後の大会に活用してほしいと話されましたが、「多様性」は、今後はどんな大会でもそれが当たり前に行われるようになってもらえたらと思っています。

D&I:「多様性」を意味する「Diversity」と「包括・包含」を意味する「Inclusion」の略語。東京2020大会の基本コンセプト。大会は、スポーツを通して、多様な個性を認め合い、違いを生かしながら、誰もが自分らしさを発揮できる社会を目指す場となる。

東京2020オリンピックで新種目となった卓球混合ダブルスで初代王者となった水谷準選手(左)と伊藤美誠選手。(2021年/東京体育館) 【フォート・キシモト】

組織委員会では、「多様性と調和」をコンセプトに掲げ、開催をきっかけに、スポーツを通じて誰もがいきいきと活躍できる共生社会の実現に向けた活動「東京2020 D&Iアクション」を推進してきましたね。

結果的に効果的だったと感じたのは東京パラリンピックでした。パラリンピック選手たちが素晴らしいパフォーマンスを披露し、それを数多くのメディアが報道したことによって、私たち組織委員会からの宣言や説明はもう不要だと思えるくらい、選手たちのパフォーマンスを通して「多様性と調和」を感じることができたのではないかと思います。
スポーツを通してという部分では、今後もパラスポーツの推進が「多様性と調和」を実現した社会への一番の近道になるのかなと思います。

東京2020パラリンピック車いすフェンシングの桜井 杏理選手。(2021年/幕張メッセ) 【フォート・キシモト】

近年では「パラリンピックの成功なくして、オリンピックの成功なし」という考えが常識となりつつあります。もともとは同じ4年に一度開催しながら、まったく別の国際大会として行われてきました。さまざまな連携が模索されていますが、今後、オリンピックとパラリンピックはどのような関係になっていくことを期待されますか。

JOCの理事にパラリンピアンやトランスジェンダーの方が入ったり、東京大会後の「感謝の集い」にオリンピアンとパラリンピアンが共に出席して頂くなど、JOCとJPC(日本パラリンピック委員会)との間の垣根が非常に低くなったと感じています。私自身もJOC理事として招致活動の時からJPCやパラリンピアンと触れ合う機会が増えたことで学ぶことが多かったんです。

今後はより一層、オリンピアンとパラリンピアン、あるいはJOCとJPCが一緒にさまざまな活動をしていくことが理想だと思います。組織委員会が開いたNF(国内競技団体)会議では大会を振り返り、今後のレガシーについて話し合う機会を設けましたが、当然オリンピックのNFだけでなく、パラリンピックのNFも対象でした。片方だけで何か話し合うのではなく、両方揃っていた方がとても良いと感じることが多々ありましたので、JOCでもそのあたりを柔軟に考えられるようになるといいなと思います。

今回、オリンピックの各競技の現場を取り仕切ったスポーツマネジャーたちのなかで、仕事が終わって休暇を取る予定だったのを急遽取りやめて、「パラリンピックもお手伝いをしたい」と志願された方がたくさんいました。例えば、オリンピックのフェンシングのスポーツマネジャーさんがパラリンピックの車いすフェンシングの現場のお手伝いをしてくださり、車いすフェンシングの関係者の方から「オリンピックの方たちが残ってくださっていなければ、やり遂げられなかったかもしれない」という言葉をうかがいました。パラリンピック競技のNFは小さな組織であるところが多いと聞いていますし、今回のように組織や大会運営においてもオリンピックとパラリンピックが融合していく形が理想のように思います。

東京オリンピックの女子選手参加率が過去最高の48.8%でしたが、これは組織委員会というよりは、IOCが男女平等になるように動いた結果だったと思います。一方で日本国内を見ますと、まだまだ女性の社会的地位については後れをとっている状況です。例えば、女性の働きやすさにおいて、日本はOECD(経済協力開発機構)に加盟する主要国29カ国中、ワースト2位の28位です。この現状を変えなければいけないわけですが、その突破口としてスポーツ界がリードしていくということは、東京大会のレガシーの一つとして期待されていると思います。

日本スポーツ界の女性参加という面から考えると、まず競技をするという点では女子選手が男子選手と比べて環境が整っていないということはないと思います。しかし、結婚や出産後の女性がアスリートとして競技を続ける、あるいは復帰するという点においては、まだまだ環境が整っていませんので、そのための施策が今後はもっと必要になってくると思います。

また、アスリート以上に課題なのが、競技団体やスポーツ国際政治の世界における女性参加で、もっと女性が活躍できるようにするためにも、やはり子育てへのサポートは必須だと考えています。
私自身は、子どもが幼かった時、岸記念体育館(東京都渋谷区)でJOCの会議があった時には、地下の体操教室に入っていた娘をそのまま体育館に待たせていました。海外と比べてみても、本来はきちんとした託児所があるべきで、新たに日本スポーツ協会の拠点となった「JAPAN SPORT OLYMPIC SQUARE」(東京都新宿区)が建設される際にも託児所を設けることを各方面から要望していたのですが、残念ながら実現はしませんでした。同じ建物にある「日本オリンピックミュージアム」には託児所ではないけれど、キッズスペースを設けるという話が進んでいたんです。ところが、途中でJOCが新体制となってしまったために、それについてもまだ実現できていません。このように、まだまだ課題が山積していることは事実です。ただ組織委員会がずっと「ジェンダー平等」の推進に取り組んできたおかげで、どこのスポーツ関連団体でも「これからは男女平等でなければならない」というふうに意識が変わってきているという手応えを感じています。
来年は杭州(中国)、2026年には名古屋市で開催が決まっているアジア競技大会でも統括するOCAと話し合い、女子選手の割合は最低でも30%にしようと動いています。この大会で見出された価値をまずはアジアでしっかりと根付かせていきたいと考えています。

女子選手については、卑猥な写真と言葉がSNSに投稿されたという問題がおきましたね。選手たちの訴えを機に、JOCなど国内スポーツ団体が「アスリートの盗撮、写真・動画の悪用、悪質なSNS投稿は卑劣な行為である」という声明を発表しました。また、東京大会では開催前も期間中も、選手に対するSNSでの誹謗中傷が大きな問題となりました。こうした盗撮やSNSによる問題については、いかがお考えですか。

JOCも大会開催前から防止対策に動いていましたが、組織委員会では競技会場での禁止行為に「性的ハラスメント目的の疑いがある選手の写真や映像の撮影」を追加しました。これにより、怪しい撮影行為をしている人に対しては注意喚起ができるようになり、場合によっては撮影したものを見せてもらい、明らかに禁止行為をしていれば強制退場にも踏み切ることができることになりました。今後、どの大会でもこうしたルールを設けることで、セクシャルハラスメントは違法行為であるという認識が世間一般に広まり、抑制効果が発揮されるのではないかと思います。実際に逮捕者も出ましたが、東京大会ではっきりと規制をしたことが大きな一歩になったと思います。

またSNSでのアスリートへの誹謗中傷についても、今後競技大会を開催する際には、性的ハラスメント目的の撮影と同様に、禁止行為であるということをスポーツ界から積極的に発信していくことで少しでも抑制できたらと思っています。もちろん、これは日本国内だけではなく、世界的な問題でもあるので、海外とも連携して対処していきたいと考えています。

ポジティブ思考をもたらした友人からの言葉

ソウルオリンピック開会式で日本選手団の旗手を務めた。 【フォート・キシモト】

小谷さんは、子どもの頃からシンクロの才能が高く評価され、1988年ソウル、1992年バルセロナと2大会連続で日本代表に選ばれ、日本人女子選手として夏季大会初の旗手を務めたソウルではソロとデュエットでそれぞれ銅メダルを獲得されています。日本のシンクロ界の顔とも言える存在ですが、そもそもシンクロを始めたきっかけは…。

子どもの時に通っていたスイミングスクールの先生の旦那さまが、日本で初めてシンクロを導入した串田正夫先生(アメリカのルールブックを取り寄せて翻訳し、日本のルールを完成させて普及、指導に努めた。日本水泳連盟シンクロナイズドスイミング委員長を務め、2001年に死去)で、その串田先生に小学4年生の時に薦められたのがきっかけでした。

小学4年ではじめての大会に出場。 【本人提供】

高校時代には単身アメリカにも留学されました。16歳で、一人で海外に行くことは一大決心だったのではないでしょうか。

当時は強くなるためだったら何でもしたいと思っていましたので、留学することには何の迷いもありませんでした。それこそ今のようにナショナルトレーニングセンターがありませんし、シンクロができるような深いプールは日本にはほとんどなかったんです。週末や夏休みを利用して、地方にある深いプールに行って練習をするという環境でした。そんななか、本場のアメリカに行けるというのは、私にとってはうれしいことでしかなかったんです。ただ今思えば、16歳の子どもを海外に送り出す母親にとっては一大決心だったと思います。

アメリカ留学時代、ホストファミリーと小谷氏(右)。 【本人提供】

アメリカ生活で、特に印象に残っていることはありますか?

14か月間のアメリカでの生活は、辛いことはほとんどなくて、楽しいことばかりでした。最初は英語の読解力が乏しかったので、先生の言っていることを理解できずに、試合でチームの足を引っ張ってしまったという失敗はありました。それでも練習環境は素晴らしかったですし、コーチもほめて伸ばしてくださる方で、それが私には合っていたので、泳ぐことがすごく楽しかったんです。地方の大会に行っても、日本では大会関係者しかいませんが、アメリカではどこでも観客がたくさんいて、声援と歓声が鳴り響くなかで演技をするのが本当に楽しかったですね。

そうした中で一番印象に残っているのは、当時のアメリカチャンピオンだった選手が、私が日本に帰国する時に渡してくれた手紙に書いてあった言葉です。「Things happen for a reason(全ての出来事には理由がある)」と書いてあったのですが、当時はあまり深く考えることなく、お守りのようにしていつも手帳に挟んで持ち歩いていました。
帰国する際は、アメリカ留学中に実績も上がっていましたので、周囲から期待され、自分自身も自信を持っていました。すぐに日本チャンピオンになれると思っていたんです。

ところが、そこから一気に転落して、数年間まったく成績が出なかったんです。「これならアメリカに留学しない方が良かったのでは」と言われるくらいひどい成績で、落ちるところまで落ちた感じでした。途中、「もうシンクロをやめよう」と思ったことも何度もあったのですが、それでも諦めずに頑張り通して、1987年、大学3年生の時にようやく全日本選手権で初優勝することができ、そこから4連覇を達成することができました。アメリカと違い日本の審判は基本を大事にしますので、留学中にはやっていなかった基本を徹底的に練習したのが評価されたのだと思います。

そのときに、自分が期待通り順調に成績を伸ばしていたら、基本を見直したり、努力したりする大切さを学ばなかっただろうなと思いました。勝てない時期を経て、ようやく勝つことができた時は、本当にうれしかったんです。「苦労していなければ、勝つ喜びも知らずに終わっていたかもしれない。勝つ喜びや努力することを学ぶために、この数年間の苦労があったんだな」と思った時に、手紙にあった「Things happen for a reason」の本当の意味がわかったような気がしました。その後、2度のオリンピックで日本代表に選ばれたのですが、苦しいことがあるたびに、その言葉を思い出して「きっとこれは自分が成長するための試練で、これを乗り越えればもっと良いことが待っている」というふうに、すごく前向きに考えられるようになりました。その言葉をくれたアメリカのチャンピオン、トレーシー・ルイスさんにはいまでもすごく感謝しています。

アメリカ留学中、チームメイトと小谷氏(中列左から二人目)。 【本人提供】

2つのオリンピックでは、さまざまなことをご経験されたと思いますが、それはその後の人生にも生かされていると感じられますか。

ソウルで銅メダルを獲得した時は、もちろん嬉しい以外のなにものでもありませんでした。一方、バルセロナでは補欠となり本番には出られなかったんですが、前回大会のメダリストとして国内でも国際的にもネームバリューがある「小谷実可子を選んだ方がいいのでは?」というようなささやきが、私の耳にも入ってきていました。でも、結果的には実績があろうがなかろうが、ネームバリューがあろうがなかろうが一切関係なく、本番の日に最もメダル獲得に近い状態の2人が泳ぐべきだとなりました。

そして決勝当日の朝に本番の会場で最終選考を行った結果、私が一番呼吸が合わず、それで奥野史子さんと高山亜樹さんが泳ぐことになったわけです。もちろん自分が選ばれなかったことに対しては本当に悔しかったですし、日本にメダルをもたらすという部分で自分が何も貢献できなかったことは切なかったですが、それでもあの時に競技スポーツの厳しさを経験したことは良かったと思っています。厳しい世界だからこそ、出場した選手が輝き、それを見た人たちが感動するんだなと。オリンピックが厳しくも尊い場であることを知れたのは、バルセロナの時だったと思います。もしあの時、私が温情で泳がせてもらっていたら、スポーツに対する確固たる考えというものを持てなかったと思っています。あの経験があるからこそ今、スポーツの世界に長く携わることができていると思いますし、あの時私を温情で選ばなかった方たちにある意味感謝しています。

バルセロナオリンピックで補欠になりインタビューに答える。(1992年/スペイン) 【フォート・キシモト】

アスリートに期待されるロールモデルとしての役割

インタビュー当日の様子。(2021年/東京) 【フォート・キシモト】

今回の東京大会は、今後のオリンピック・パラリンピックのあり方を見直すきっかけにもなるように思います。あまりにも巨大化し、開催都市の負担は増えるばかりで、否定的な意見は少なくありません。しかもコロナ禍となり、開催の意義が問われるようになりました。さまざまな立場でオリンピックに携わってきた小谷さんは、今後オリンピック・パラリンピックはどうあるべきだと考えられていますか。

今回は、コロナ禍での開催でしたので、仮設設備の見直しや関係者数の削減など52項目に及ぶ簡素化に踏み切りました。そうしたなかで無念に感じ、次の大会では絶対に実現させてほしいと思ったのは、観客動員です。特に子どもたちにはパラリンピックを会場で生で見て、人間の可能性や、それこそ共生社会の姿を見たり、さまざまなことを感じてほしかったなと思いました。オリンピックも含めて、無観客で行われたことだけは、本当に残念でなりませんでしたが、それ以外については、極力簡素化したことで、これまでにないほどシンプルな大会になったと思います。それでも、世界新記録の数を見ても不安視されていた競技の質はまったく劣ってはいなかったですし、共同通信の開催後の世論調査によると、オリンピックは62.9%、パラリンピックは69.8%の人が、「開催して良かった」と評価をしてくださいました。それらを考えますと、オリンピック・パラリンピックの真髄であるスポーツの力は十分にお見せすることができたのではないかと思っています。簡素化してもこれだけの大会が開催できるんだということを示すことができたと思いますので、東京大会が今後のあるべき姿としての指標になるのではないでしょうか。

東京2020大会で活躍したボランティア。(2021年/東京) 【フォート・キシモト】

海外からも称賛されましたね。それは、本当に多くの方々のご尽力の賜物だと思いますが、中心となって開催を実現させた組織委員会のスタッフなどの人材を今後はどのような形で生かしていきたいと思っていますか。

私は組織委員会のすべてのスタッフが、東京オリンピック・パラリンピックのレガシーの一つだと思っています。競技運営のノウハウだけでなく、ジェンダー平等やD&Iへの活動を通して、社会への意識も高まりました。その多くの人たちは2021年10月1日からは元の職場に戻ったわけですが、そこで組織委員会で培われた知見や経験、そして社会への意識を広げていくことで、日本の社会は変わっていくことができると思います。

また、世論が開催に否定的だったなかでもボランティアを務めてくださった方々は、信念を持って集まってくださった人たちばかりです。にもかかわらず、無観客開催となったことで、担当するはずだった仕事がなくなった人たちも数多くいました。それでも東京大会を成功させたいという強い思いを持ってくださった人たちを、組織委員会は手放すことなく、何かできることがないかと知恵を絞りました。たとえば、水泳会場では選手団のバスをお見送りするための花道をつくったり、ラグビー会場では無観客でも盛り上げようと選手の入場の際に大きな拍手を送ったりしたのですが、そのような活動はボランティアの人たちが自発的に行ってくれたことだったんです。
大会後、日本スポーツ協会が行ったアンケートでは、およそ80%の人が「また大会ボランティアをやりたい」と答えてくださったそうです。この方たちも、今後の日本スポーツ界を支えて下さるレガシーになると思っています。

今大会はコロナ禍で、行動制限があったりPCR検査を受けなければならなかったり無観客だったりと、さまざまなネガティブな条件があったにもかかわらず、IF関係者からは「競技会場の運営やボランティアのおもてなしが、本当に素晴らしかったので、まったくネガティブな気持ちにならなかった。とても素晴らしい大会だった」と言っていただきました。また、今後そういう日本で観客を入れたなかでの国際大会を開催したいという要望も多くあったんです。こうした評価からも、東京オリンピック・パラリンピックではハード面だけでなく、人的なレガシーを残すことができたなと感じています。

最後に、後世に残したいこと、ご自身が今後やり遂げたいことを教えてください。

今回、コロナ禍でも東京オリンピック・パラリンピックを無事に開催したことで、日本に対する海外からの信頼も高まったと思います。それこそ海外からは「日本でなければできなかった」とか「日本でなければ安心して来られなかった」という声が本当に多かったんです。ぜひ、子どもたちには困難のなかでも、安全に、着実に大会を成し遂げた日本人の一人であることを誇りに思ってほしいと思います。組織委員会の橋本会長は「人間力なくして競技力の向上なし」という言葉をJOC強化本部長を務められている時からスローガンに掲げられてきたわけですが、実際にアスリートは自分たちが発信する言葉には社会を動かすほどの大きな力があることを知っています。そして、社会の為に何かしたいという意識を持っているアスリートもどんどん増えています。

そういうなかで、今回の東京大会が終わった際、本当に尽力してくださったボランティアの方々に組織委員会として御礼の動画をつくることになり、JOCを通してアスリートたちにメッセージをお願いしました。ご存知の通り、大会が終わってもメダリストたちは本当に忙しいんです。さまざまなメディアからも引っ張りだこですし、地元や企業などへのお礼の挨拶もしなければならないので、全く休まる暇がないんです。それを経験している私としては申し訳ないと思いながらも、お願いをしたところ「喜んで」と快く協力してくれたアスリートが何人もいました。それは、やっぱり名のある選手だったり、活躍した選手だったりするんですよね。「実力がある選手ほど、社会に対する貢献や恩返しをしたいという意識が強いものなんだな」と改めて感じました。

私は現役引退後、1998年長野冬季大会の招致活動から始まって、その後も大阪大会、東京大会とオリンピックの招致活動に携わってきました。それは本当に光栄なことでしたし、貴重な経験をさせていただいたと思っています。ただ、誤解を恐れずに言えば「また私・・・・・」。それは「オリンピアン」であり「メダリスト」であり「女性」であり「海外留学経験もある」というようなことで、名前があがりやすかったのかなと思います。ただ、これからはもっとたくさんの名前があがってほしいなと思うんです。それこそ、今後札幌冬季大会の招致活動があった場合、誰を選ぶか悩んでしまうくらい候補として名前が挙がるといいなと思いますし、実際にいるはずです。私は、今度はそういう若い人たちをどんどん押し上げていくことが役割なんだと思っています。

※本記事は、2022年2月に笹川スポーツ財団ホームページに掲載されたものです。

民間人として初めて国連総会に出席。長野冬季オリンピック開催期間中の停戦を求める「五輪停戦決議」を提議し、全会一致で採択された。(1997年/ニューヨーク) 【本人提供】

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笹川スポーツ財団は、「スポーツ・フォー・エブリワン」を推進するスポーツ専門のシンクタンクです。スポーツに関する研究調査、データの収集・分析・発信や、国・自治体のスポーツ政策に対する提言策定を行い、「誰でも・どこでも・いつまでも」スポーツに親しむことができる社会づくりを目指しています。

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