パラリンピックの第一歩は、1948年、英国の病院で、16人の車いす選手が参加したアーチェリー競技大会から始まった―。
【2016リオデジャネイロパラリンピックで、5大会連続出場・連続入賞を果たした 走り高跳びの鈴木徹選手/写真:フ】
1948年7月29日、パラリンピックの第一歩
リオデジャネイロパラリンピックの感動と興奮は、まだそこかしこに余韻を残している。2016年9月のリオ大会には159カ国・地域と難民選手団の4316人が参加し、22競技、528種目で熱戦が繰り広げられた。障害者スポーツを大きく発展させる原動力となり、いまやその迫力で多くの人々を引きつける存在ともなりつつあるパラリンピック。この盛況を見るにつけ、あらためて思わずにはいられないのは、およそ70年前に印された第一歩のこと、そして未踏のフィールドに種をまいた一人の人物のことだ。
1948年7月29日、英国ロンドン郊外にあるストークマンデビル病院の一角で、その競技会はひっそりと行われた。16人の車いす選手が参加してアーチェリーをやったのである。この第1回ストークマンデビル競技大会が原点となって、のちのパラリンピックへと発展していく。わずか16人の参加ではあったが、これが発展へと続く道の扉を押し開いたのだ。
競技会を企画し、開催を実現させたのがルードウィヒ・グットマン博士であるのはよく知られている。1899年にドイツで生まれたユダヤ人で、神経外科医となって対麻痺(両下肢麻痺)の治療、研究にあたっていたが、ナチスの台頭で英国に逃れた。第二次大戦の戦闘による多くの戦傷者のため、ストークマンデビル病院に脊髄損傷センターが開設され、その長を任されたのが1944年。そこで、脊髄損傷患者に対してさまざまな面から包括的に治療を行って目覚ましい成果を挙げるうち、きわめて有効な方法のひとつとして着目したのがスポーツだった。
「パラリンピックの父」とよばれるルードウィヒ・グットマン博士 【写真:フォート・キシモト】
少しでも機能を回復させるため、また失ったものではなく残った機能をできる限り生かすために、スポーツがもたらす効果は非常に大きい。そう確信したグットマン博士はパンチボール、ロープクライミングをはじめ、車いすのポロやアーチェリー、卓球などのスポーツを治療や訓練に積極的に取り入れ、車いす生活となった患者たちの社会復帰を進めていった。その一環として競技会開催を思い立ち、1948年夏の記念すべき第1回が実現したのだ。なんともささやかな第一歩、だがグットマン博士はその将来をしっかり見据えていたと思われる。
病院の一角で始まった競技大会の発展
何より大きかったのは、このストークマンデビル競技大会を毎年続けたことだろう。第1回は16人だった参加者は60人、110人と少しずつ増えていき、種目も広がった。5回目となった1952年はオランダ選手が参加して、ここから国際ストークマンデビル競技大会となった。年を追うごとに、さらに多くの国から選手が集まるようになり、大会は次のステップへと進むことになる。
初めて英国以外で開かれたのは1960年。このローマ大会は、同地で行われた第17回夏季オリンピックが閉幕して6日後に開かれ、23の国から400人が参加。アーチェリー、陸上、ダーチェリー(アーチェリーとダーツの的を組み合わせたような競技)、スヌーカー(ビリヤードに似た競技)、水泳、卓球、車いすフェンシング、車いすバスケットボールの8競技、57種目が8日間にわたって実施された。これが、国際パラリンピック委員会(IPC)が設立されてのち、第1回パラリンピックとして認定された大会だ。
障害者スポーツ振興へ
ストークマンデビル大会はその中心として続いていき、4年に一度、すなわちオリンピックの年にはその開催国で開かれるようになった(1968年のイスラエル、1980年のオランダは例外)。ローマに続いて、それがのちにパラリンピック大会として認定されることになる。しだいに規模を広げていった大会が、また新たな形へと進化したのは1976年のトロント。それまで脊髄損傷だけだった参加に切断と視覚障害が加わったのだ。1980年のオランダ・アーネムでは脳性マヒも入って、すべての障害者のための大会へと発展していく。
そしてIPCが設立(1989年)され、パラリンピックが正式名称となり、IOCとの協力関係も確立し、オリンピック開催都市で引き続き開かれることとなって、パラリンピックは現在の形に至った。16人でひっそり始まった大会が、世界中の国から4000人以上が集まるスポーツの祭典に成長した。ロンドンオリンピックの開幕に合わせて大会を開いた先駆者の壮大な夢は、まさしく現実のものとなったのである。
1960年第1回パラリンピック競技大会ローマ大会(第9回国際ストークマンデビル競技大会)の頃に使用されていたエンブレム 【写真:フォート・キシモト】
グットマン博士は1980年、80歳で死去した。パラリンピックを思いつき、実行に移し、大きく育て上げたこの人物は、まさしく「パラリンピックの父」だった。
「障害者にとって、スポーツは最も自然な治療訓練であり、また在来の療法を補足して、より以上の効果をあげ得るものである」
「スポーツの目的は、障害者とそのまわりの人々とを結びつけることである。つまり、障害者を社会に再融和または融和させることである」
「(脊髄損傷者のスポーツ活動は)最も深刻な障害のひとつを、人間の心と精神の力が克服できるということを事実として証明したものであり、また人体のはかり知れない再適合の力を示したものである」
著書に残る言葉の数々は、先駆者の強い思いを鮮烈に伝えており、かつ、それがいまも古びていないことをも示している。「失われたものを数えるな。残っているものを最大限に生かせ」という励ましは、いまもすべての障害者の胸にたたまれている。
文:佐藤 次郎(スポーツジャーナリスト/笹川スポーツ財団 評議員)
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