生き抜く努力が今に繋がる/伊藤大司が中学生に語った18分(後編)

滋賀レイクス
チーム・協会

【高校から米国留学し、NCAAのディビジョン1でもプレーした経験を持つ伊藤大司選手】

滋賀レイクスターズの司令塔で、バスケットボール日本人男子では史上2人目となるNCAA(全米大学体育協会)ディビジョン1出場選手というキャリアを持つ伊藤大司。レイクスが実施したU15(15歳以下チーム)所属選手のNBA球団主催キャンプ派遣事業の説明会で語った18分の?白熱講義?の後編。

日本人2人目のNBAプレーヤーとなった渡邊雄太(ジョージワシントン大―グリズリーズ)や、日本人で初めてNBAのドラフト1巡目指名を受けた八村塁(ゴンザガ大ーウィザーズ)。ここ数年でバスケットボールで米国留学する日本人は飛躍的に増えた感があるが、伊藤がアメリカへ渡った2000年代前半ではレアケースだった。それも高校からとなると、なおさらだ。

伊藤が米国留学を決意したのは小学6年生の時だという。当時はすでにバスケ少年で、衛星放送で見るNBAのスターに夢中だった。「NBAへ行くなら、アメリカで修行するのが一番近道かな」。その思いを強く実感させてくれる存在が身近にあった。4学年上の兄・拓摩(元アルバルク東京ヘッドコーチ)が、高校からアメリカへ渡ったのだ。

「兄が年に1回、夏休みに帰省したときに1対1をすると、めちゃくちゃうまくなっていた。体も大きくなっているけど、それ以上にスキルが。?ちょっと行ってこれだけ上手くなるなら絶対俺も上手くなる、俺も行く?と思って、アメリカ行きを決めました」

最初は小学校卒業と同時に行こうとしたそうだが、理解のある親と相談し、日本の義務教育は終えて行くことに。「その準備の4年間はどういうことができるか考えた。英語の授業で5段階評価の5を取れば、親や学校にも?俺はこれだけ準備をしているんだ?とアピールできると思って、めちゃめちゃ頑張った。バスケも日本で一番上手くなって物足りないからアメリカに行くと思わせたいから、誰にも負けないくらい練習した。その結果、U15(日本代表)や全国ベスト5にも選んでもらった」と、並々ならぬ決意で中学3年間を過ごした。

それだけの準備をして臨んでも、アメリカでは大きな挫折を味わったのは、前回紹介した通り。伊藤はその壁を努力で乗り越えた。ただ、がむしゃらに頑張れば乗り越えられるほど、アメリカの壁は生易しくはない。努力の仕方にも、伊藤なりの戦略があった。

「フロアに残したい」と思われる選手になればいい

「小さなアジア人がどう生き抜けばいいか。アメリカではすごくアピールが大事。とても大事だと思ったのが?ボケる?こと。英語わからなくてもボケてボケて…たまにスベったけど(笑)それをやることで面白いヤツだと思ってもらえる。

その次は誰よりも頑張っているところを見せる。?あいつはハードワーカーだ??一緒にプレーしたい?と思わせる。仲間がいいプレーした時は?グッジョブ?とか?レッツゴー?と手を叩いてモチベーションを上げることを言った。技術がなくてもディフェンスでチャージングやルーズボールを取ったり、試合をコントロールしたりとしていくうちに?大司とプレーしたい、大司をフロアに残したい?と思われるような選手になれた」


生き残るために必要なアピールと努力。そうやって伊藤はアメリカの強豪高校、大学ではNCAAディビジョン1のチームでキャプテンを任されるような選手となった。昨季のレイクスでも、低迷にもがきながらもチームがモチベーションを保ち、最終的に盛り返すことができたのは、伊藤の存在感によるところが大きかった。

「この時に答えを見つけたから今もあると思っている。行って楽しいことばかりではないけど、自分なりにどう乗り越えられるか答えを見つける、勉強やバスケ…いろんな問題が出てきて、結果そこで答えを見つけて、乗り越えられるかもしれないし、乗り越えられないかもしれない。でもそれがいまの僕に繋がっているし、これからも繋がっていくと思う」

兄の背中を見てアメリカへ渡ったように、伊藤の背中がまた、次世代を担う中学生たちに大志を抱かせるロールモデルとなるはずだ。
  • 前へ
  • 1
  • 次へ

1/1ページ

著者プロフィール

滋賀県大津市をホームタウンに、B.LEAGUEに参戦するプロバスケットボールクラブ。「日本一となることを通して滋賀の誇りとなる」をミッションに、憧れを拓く強いクラブを目指す。

編集部ピックアップ

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着コラム

コラム一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント