ファンが選ぶ!衝撃の日本人選手補強ランキング 柿谷、俊輔、遠藤らの順位は?

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横浜FMの顔だった中村俊輔がまさかの移籍。名波監督率いる磐田が日本屈指のファンタジスタを獲得した【Getty Images】

 1993年5月15日に開幕した日本初のプロサッカーリーグ、Jリーグにおいて移籍第1号となったのは、同年7月にヴェルディ川崎から清水エスパルスに移籍した元日本代表DF加藤久だった(ランキング結果41位)。ベテランDFを加えた清水はニコスシリーズ(第2ステージ)でV川崎と激しいデッドヒートを繰り広げ、2位へと躍進した。

 翌94年にはガンバ大阪のエースストライカー、永島昭浩が清水へ(同51位)、“ドーハの悲劇”で知られる93年10月のW杯アジア最終予選に出場した日本代表DF勝矢寿延が横浜マリノスからジュビロ磐田へ移籍する(同68位)。

 もっとも、アマチュア時代の名残からか、当時はまだ移籍が活発ではなかった。そうした流れが大きく変わるのが97年だ。ジェフ市原の顔だった日本代表FW城彰二が横浜Mへ(同49位)、ベルマーレ平塚の主軸だった名良橋晃が日本代表復帰を狙って鹿島アントラーズへ(同48位)、そして日本サッカー界の新世代の旗手として期待されていたMF前園真聖が横浜フリューゲルスからV川崎へ移籍するのだ。

 それ以降は移籍が活発となり、補強はチーム力アップを狙ううえで重要な戦略となっていく。

 代表クラスを多数獲得する大型補強あり、バンディエラの禁断の移籍あり、欧州組の獲得あり、青天の霹靂の補強あり……。

 まさか、あの選手が、あのクラブへ――。

 そんなインパクトのある日本人選手の補強を、スポーツナビの読者投票によるランキング形式で振り返っていく。やはり移籍・補強への関心が高いのか、10代~40代までが満遍なく投票に参加。Jリーグ開幕を20代、30代で迎えた50代、60代の読者も多数、票を投じてくれた。

 それでは「ファンが選ぶ! 衝撃の日本人選手補強ランキング」の結果を見ていこう。

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まさか、うちに来てくれるなんて…

C大阪のバンディエラ、柿谷がまさかの名古屋入り。新天地でも愛着のある8番を選んだ【Getty Images】

 20%弱という高い得票率を記録し、1位に輝いたのは、今シーズンのストーブリーグの目玉となった柿谷曜一朗の名古屋グランパスへの移籍だ。
 セレッソ大阪のアカデミー出身で、クラブのレジェンドである森島寛晃の8番を受け継いだ柿谷がまさか、他クラブのユニホームを着ることになるなんて……。そう驚いた人は、C大阪サポーターのみならず、当の名古屋サポーターも、他クラブのサポーターにも多かったに違いない。
 たしかに近年の柿谷は、かつてのような輝きを放てていなかったが、それでも「曜一朗が出て行くとは思わなかった」「まさか、うちに来てくれるなんて」とC大阪、名古屋両サポーターからのコメントが寄せられた。
 柿谷のようなクラブの顔=バンディエラの移籍は、当該クラブのサポーターのみならず、サッカーファン全体に強烈なインパクトを残す。遠藤保仁のガンバ大阪からジュビロ磐田への移籍(同2位)、中村俊輔の横浜F・マリノスから磐田への移籍(同3位)も、同種の移籍と言っていい。
「ガンバのレジェンドの移籍は想像もしていなかった」「ヤットはガンバの象徴だったので、まさか移籍するとは」といったコメントにあるように、遠藤の移籍は多くのサッカーファンにとって青天の霹靂(へきれき)だった。しかも、移籍先がJ2の磐田だったことも驚きだ。
 当時の遠藤は宮本恒靖監督のもと、控えに回る機会が増えていた。この移籍は「俺はまだまだやれる」という意思表示であり、磐田にとってはJ1復帰の切り札だった。
 10年にエスパニョールから古巣の横浜FMに復帰した中村は、引退の日までトリコロールのユニホームを脱ぐことはないものだと予想された。
 だが、14年7月のシティ・フットボール・グループ経営参入以降、クラブとの信頼関係が損なわれていったのか、「サッカーへの情熱や、純粋にボールを追いかけて、信頼関係を感じながらサッカーがしたい」と16年12月限りでの退団を決意する。
 そんな稀代のレフティに声を掛けたのが、日本代表でチームメイトだった磐田の服部年宏GMと名波浩監督。こうして「ミスターマリノスが他のクラブでプレーする姿は想像できなかった」という衝撃の補強が実現したのだった。

他サポも驚く、禁断の移籍

悩んだ末に出身地のクラブである川崎Fへ。齋藤のこの決断は物議を醸した【Getty Images】

 翌18年のストーブリーグを賑わせたのも、横浜FMだった。中村のあとを継ぎ、10番を背負った齋藤学が川崎フロンターレへと移籍したのだ(同4位)。
 クラブのアカデミー出身で、キャプテンを務め、欧州移籍を睨んで単年契約を結んだにもかかわらず、負傷離脱中に神奈川ダービーのライバル、川崎Fに移籍したことに対して「とにかくショックだった」「考えられない移籍」「怪我からの復帰を長い目で待っていたのに」といったコメントが多数寄せられた。
 齋藤にも移籍に踏み出さざるを得ない事情があったが、日産スタジアムの横浜FM戦で途中出場する際、大ブーイングを浴びせられたように古巣サポーターの怒りを買ってしまった。
 田中マルクス闘莉王、興梠慎三のケースも同じく禁断の移籍と言えるだろう。前者は浦和レッズから名古屋へ(同5位)、後者は鹿島から浦和へ(同8位)、優勝争いのライバルチームに移籍したのだ。
 10年に名古屋の一員となった闘莉王は、ドラガン・ストイコビッチ監督のもと攻守両面で活躍。「リーグ優勝のラストピースだった」「優勝の原動力だった」というように、「優勝請負人」と呼ぶに相応しい働きを見せた。
 鹿島で07年から09年のリーグ3連覇に貢献した興梠は、13年に浦和の一員に。「鹿島と浦和の関係を考えると、信じられない移籍」「純粋に驚いた」「よりによって浦和に行くとは」といったコメントを見れば、この移籍がいかに衝撃的だったかが分かる。
 もともとMFでチャンスメーカーの色が濃かった興梠は浦和加入後、9年連続2桁ゴールをマークするなどストライカーとしての才能が開花。今なお浦和の前線に君臨している。
 現役日本代表の移籍は、どの時代においても話題性が高いものだ。07年、阿部勇樹の千葉から浦和への移籍(同10位)、02年、中澤佑二の東京Vから横浜FMへの移籍(同11位)は驚きだったが、一方でステップアップの移籍でもあった。
 イビチャ・オシム監督のもと、充実のシーズンを過ごしていた阿部だったが、06年夏にオシム監督が日本代表監督に転身すると、その半年後、阿部もリーグ王者の浦和へ移籍。この年、阿部はAFCチャンピオンズリーグ優勝に大きく貢献した。
 この移籍には「ジェフの最高傑作の阿部ちゃんが高額で移籍したのは、衝撃ながら納得」「阿部はずっとジェフにいるんだろうと思っていたら、オシムロスで浦和に行ってびっくり」といったコメントが寄せられている。
 一方、中澤は02年日韓W杯のメンバー入りを目指し、ワールドカップイヤーに入って代表選手が数多くいた横浜FMに移籍した。「中澤の移籍には落胆した」とは、練習生から代表選手へと育てたヴェルディサポーターの偽らざる本音だろう。

欧州から古巣に戻らないという衝撃

ロシアW杯後にフランスのトゥールーズに移籍した昌子はタイミングの問題もあり、鹿島ではなくG大阪のユニホームを着ることになった【写真:西村尚己/アフロスポーツ】

 移籍自体のインパクトよりも、その後の活躍によって印象が強烈になったのが、家長昭博、大久保嘉人のケースだ。
 G大阪アカデミー時代から天才と言われていた家長は、大宮アルディージャでも王様だったが、17年に川崎Fに加入すると、3度のリーグ優勝、ルヴァンカップ、天皇杯制覇に貢献。18年にはリーグMVPにも輝いた。
 一方、大久保は12年に所属するヴィッセル神戸がJ2に降格。戦力外の状況で川崎Fに加入したが、その後3年連続得点王を獲得したのはご存知のとおり。そんなふたりには「嘉人とアキはフロンターレに来て、才能をさらに開花させた」というコメントが寄せられている。
 欧州組の国内復帰も、強いインパクトを放つようだ。上位20位にランクインしたのは、5人のケース。中村の横浜FM復帰(同14位)はすでに触れたが、欧州でバリバリやっていた小野伸二がフェイエノールトから浦和に復帰したのも、当時のビッグニュースだった(同18位)。
 そんな中村や小野よりも多くの表を獲得したのが、13位に入った昌子源のG大阪加入だ。中村、小野、さらに16位の清武弘嗣も古巣への復帰だったが、トゥールーズから国内復帰を果たした昌子の場合、古巣の鹿島ではなく、中学生時代を過ごした浪速の雄に加入した。
 同じくハンブルガーSVでプレーしていた酒井高徳も新天地としてJ2で戦うアルビレックス新潟ではなく、ヴィッセル神戸を選んだ。このふたりの移籍には「鹿島に帰ってきてくれると信じていたのに」「新潟に帰ってくると思っていた」と、古巣サポーターの嘆きのコメントが多かった。
 ランキングの中で異色なのが、9位の楢﨑正剛だろう。所属する横浜Fが横浜Mとの合併によって98年限りで消滅し、移籍を余儀なくされたのだ。
 名古屋に加入した楢崎は「守護神として絶対的な地位を築いてくれた」とのコメントにもあるようにチームの顔となり、10年のリーグ優勝に貢献。GKとして初となるリーグMVPにも選出された。名古屋にとっては最高の補強だったと言えるだろう。

(企画構成=YOJI-GEN)

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