アトレティコ対アトレティック。「兄弟クラブ」の長い歴史を紐解く

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ラリーガ EA SPORTS 第26節の好カードであるアトレティコ・デ・マドリー対アトレティック・クルブは、3位と4位の上位対決として注目を集めているだけでなく、多くの共通点を持つ「兄弟クラブ」の対決としても特別な意味を持っている。

共に赤白の縦縞をチームカラーとしていること、またクラブ名が似通っていることは周知の事実ながら、両クラブがそれ以上に深い関係にあることはあまり知られていない。

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現在のアトレティコは1903年、「アトレティック・クルブ・デ・マドリー」という名で生まれた。創立メンバーはマドリー在住のバスク人学生たち。アトレティック・クルブのファンである彼らは、マドリーを拠点とする兄弟クラブを作ることで、地元クラブとのつながりを保とうと考えたのだった。

5年先に生まれたビルバオの「兄」と同じく、マドリーの「弟」も創立当初は青白のシャツを使用していた。両クラブに赤白のチームカラーが定着したのは1911年、クラブ関係者がイングランドから持ち帰ったサウサンプトンFCのユニフォームを両クラブで着用したことがきっかけだ。

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創立からの数年間、2つのアトレティックは深くつながっていたが故、公式戦で対戦する機会がなかった。当時は選手を共有することもあり、1911年のコパデルレイ決勝ではマドリーのFWマヌエル・ガルニカ・セラーノがビルバオに貸し出され、エスパニョール相手にゴールを決めている。

その後スペインフットボール界のプロ化が進んだことで、2つのアトレティックは別々のクラブとしての道を歩み始めた。1921年にはビルバオの「兄」がサンマメスでマドリーの「弟」を4ー1で下し、スペイン王者に。ラリーガが発足した1928/29シーズンにはそれぞれ完全に独立したクラブとなり、1929年4月7日にはエスタディオ・メトロポリターノ・デ・マドリーにてハイレベルな公式戦としては史上初となる兄弟対決が実現。この試合はビルバオの「兄」が3ー2で制している。

兄弟喧嘩が感情的になりやすいのと同じく、両クラブはその後何10年にも渡って激戦を繰り返してきた。1950年1月の一戦では、モロッコ生まれのラルビ・ベンバレクらのゴールによりアトレティコが驚異的な粘りを見せ、歴史に残る6ー6の打ち合いを演じた。1982年10月には退場者を出したアトレティックがリーグ優勝を決定づける4ー1の勝利をサンマメスで手にしている。

アトレティコが2ー1で制した2014年3月のサンマメスでの一戦は、同シーズンのラリーガ EA SPORTS を制す上で鍵となる勝利だった 【(C)LaLiga】

両クラブはラリーガ以外でも名勝負を繰り広げてきた。1956年のコパデルレイ決勝はアトレティックが2ー1で制し、マドリーからタイトルを持ち帰っている。ブカレストで行われた2011/12シーズンのヨーロッパリーグ決勝は両クラブがUEFA主催大会で対戦した唯一の一戦であり、アトレティコが3ー0で完勝している。

別々のクラブとなった今も両クラブの関係は続いている。アトレティックのスポーツディレクターだったホセ・マリア・アモルトゥは2006〜11年にかけてアトレティコのアカデミー責任者を務め、コケを筆頭とする若い才能をトップチームに送り込んだ。その後彼はアトレティックに戻り、イケル・ムニアイン、イニャキ・ウィリアムスといったタレントを育てている。

昨夏に引退したラウール・ガルシアは、アトレティコの選手として2007〜15年にかけてラリーガ EA SPORTS で216試合に出場。アトレティックでも2015〜24年にかけて292試合に出場し、両クラブでゴールを記録した数少ない選手となった。

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3月1日の現地時間21時にリヤドエアー・メトロポリターノでキックオフを迎える一戦にて、兄弟クラブは再び火花を散らすことになる。勝ち点3を奪い合うピッチ上での戦いにおいては、選手もファンも兄弟クラブとしての関係や125周年に伴うリスペクトを忘れ、全力でぶつかり合うはずだ。

今季第4節の対戦は92分にアンヘル・コレアが劇的な決勝点を挙げ、アトレティコが敵地から勝ち点3を持ち帰った 【(C)LaLiga】

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