選手の安全を守る白バイ隊員に運営管理車のドライバー 箱根駅伝を支える裏方たちの物語

柴山高宏(スリーライト)
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提供:トヨタ自動車

【写真:アフロ】

 1920年に第1回大会が開催され、2024年に記念すべき100回目を迎えた箱根駅伝。

 正月の風物詩となって久しいこの大会は、主催する学生自治団体である一般社団法人関東学生陸上競技連盟(以下、関東学連)の学連幹事、各大学の主務、マネージャーといったサポートスタッフはもちろん、警視庁と神奈川県警察の白バイ隊員や沿道の自治体、大会関係車両を提供し、ドライバーを派遣しているトヨタ自動車をはじめとする企業など、実に多くの裏方によって支えられている。

 この連載では、箱根駅伝を支える裏方たちによる、知られざる物語を紐解いていく。第1回は、長きに渡って選手の安全を守り、大会をサポートしてきた元神奈川県警察の白バイ隊員と、各大学の監督が乗車する運営管理車など大会関係車両のドライバーの仕事を紹介する。

白バイ隊員になることは夢だった

「神奈川県警察の白バイ隊員の多くは、箱根駅伝で1位のチームの選手を先導することを希望している。例に漏れず私もそのひとりで、やっとの思いで白バイ隊に配属され、長年の夢がかなったときは、本当に嬉しかった」

 白バイ隊員、そしてコース上の交通整理などで約20年もの間、箱根駅伝を支えてきた、元神奈川県警察の藤下信は述懐する。

 藤下は1981年、神奈川県警察で警察官を拝命した。87年に第二交通機動隊に着任し、94年までの7年間、白バイ隊員として箱根駅伝に出走する選手たちの安全を守り続けてきた。93年の第69回大会では、藤下の夢であった、白バイ隊の選抜メンバーが務める1位のチームの選手の先導に選ばれた。箱根駅伝のテレビ中継で、その名が紹介される2名の白バイ隊員のうちのひとりといえば、イメージしやすいだろうか。

「はじめての箱根駅伝は緊張した。大会終了後は達成感を味わったというより、無事に終わったことにただただ安堵した。私が白バイで先導していた時間は約3時間になるが、あっという間ではなく、とても長く感じた」という。

元神奈川県警の藤下信(現東京ビジネスサービス警備管理部課長 横浜営業所警備員指導教育責任者) 【撮影:熊谷仁男】

 箱根駅伝当日を迎えるにあたって、白バイ隊員は現場の実地踏査を行う。藤下が所属する第二交通機動隊の管轄である戸塚近辺から芦ノ湖まで、往路と復路のコースを何度も走って、渋滞が発生しやすいポイントや対向車線からの右折車が多いポイントの把握を徹底的に行う。同時に、沿道の建物もチェックする。特にコンビニエンスストアのような商業施設が新たにできると、人の流れにも影響を及ぼすことになるので、細心の注意を払う。

 このように、準備は入念に行うが、警察関係者が口を揃えて「道路はまるで生き物のよう」と形容するように、交通への影響を最小限に留めるために、交通規制にかける時間を極限まで縮めた道路では、いつ、何が起こるかわからない。

「白バイ隊員は選手の安全を守るため、沿道の観客の動向を注視し、対向車線に常に目を光らせている。箱根駅伝はどこに行っても観客が途切れることがないので、一瞬たりとも気は抜けない。沿道に犬を連れて歩いている人を見つけたとき、コース上に犬が飛び出してくることを懸念して、『犬は抱いてください』とお願いをしたこともある。白バイ隊員はそこまで気を遣い、不測の事態が起こったときには真っ先に選手の防壁になるべく備えている」

 97年には分隊長として第二交通機動隊に異動となり、2000年までの3年間、「遊撃白バイ」の乗り手として、再び箱根駅伝に携わることに。遊撃白バイはテレビ中継車の前を走っているので、テレビでその姿を見ることはできないが、交通渋滞を防ぐために隊列の最前で臨機応変な対応を行うことが求められるので、ベテランが配備される。

山梨学院大学・上田誠仁元監督との交流

取材に応じる藤下信 【撮影:熊谷仁男】

 08年からは交通規制課に異動し、定年退職する18年までの10年間、神奈川県警察の交通管制センターで箱根駅伝における交通対策の陣頭指揮を執った。主催の関東学連、共催の読売新聞社らと協議を重ね、約2,800人もの警察官を動かし、交通規制を実施。三が日は人手が多く、「箱根駅伝を安全に運営することを第一に、交通への影響を最小限に留めることを意識していた」という。

 白バイ隊員として10年、交通規制課で10年。約20年もの間、箱根駅伝を支えてきた藤下には、今も忘れられない光景がある。それは80年代後半のこと。若手白バイ隊員だった藤下が、復路のスタートに向けて芦ノ湖付近に待機して準備をしていたところ、新興校だった山梨学院大学の応援団、チアリーダー、吹奏楽部の学生たちが揃って「よろしくお願いします」と挨拶をしにやって来た。

「まさか学生が、白バイ隊員に挨拶をしに来てくれるとは思わなかった。はじめての経験で、隊員は皆驚き、感動していた」

 藤下が08年に交通規制課に異動になったことは既に述べた。当時、関東学連の駅伝対策委員長を務めていた山梨学院大学の上田誠仁監督(現顧問・中距離コーチ)が神奈川県警察にやってきたとき、この話をしたところ「そんなことがあったんですか」と驚いていたという。白バイ隊員の心を打った学生たちの挨拶が上田の指示ではなかったことに、藤下もまた驚いた。

藤下信が神奈川県警察を定年退職する際に、山梨学院大学の上田誠仁元監督から贈られた書。「疾風知勁草」(しっぷうにけいそうをしる)は、上田の座右の銘だ 【撮影:熊谷仁男】

 18年、箱根駅伝とともに駆け抜けた藤下の警察人生は終わりを告げた。退く寂しさもあったが、嬉しいこともあった。神奈川県警察時代は立場上、絶対にできなかった箱根駅伝に携わる人たちとの私的な交流が、退職を機に生まれたのだ。

今ではLINEでやりとりをする仲になった上田もそのひとり。「『今回の取材で上田さんとのこれまでのやりとりを話してもいいですか?』と聞いたところ、快諾してくれた」と、藤下は顔をほころばせる。

 箱根駅伝は来春、101回大会を迎える。次の100年に向けて新たなスタートを切る箱根駅伝を支える、神奈川県警察の後輩白バイ隊員に期待していることを尋ねると、「現場で不穏な“匂い”を察したら、率先して動いてもらいたい。白バイ隊員たるもの、考える前に動くべき」。そういう藤下の顔は、現役時代さながらに厳しかった。

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