【連載】早大『令和5年度卒業記念特集』 目黒歩偉/米式蹴球
日本一を追い求めた4年間
目黒とフットボールの出会いは小学3年生のとき。フラッグフットボールチームに所属しプレーしていた。そこから中学校でも競技を続けていき、アメリカンフットボールの強豪・佼成学園高に進学する。1・2年時は日本一に輝き、3年時には主将も務めた。「これまで一度も日本一になったことがないチームで日本一になりたかった」と、早稲田大学への進学を希望。見事合格を果たし、早稲田大学BIG BEARSの門をたたいた。
甲子園ボウル進出に貢献した目黒 【早稲田スポーツ新聞会】
しかし、この時点で、目黒の身体はケガが続いていたことによりすでに限界を迎えていた。そして、上手くなることよりもケガをしないことに意識が向いていたため、選手にはふさわしくないとも考えていた。東北大戦での試合中のケガが決定打となり、甲子園ボウル前に髙岡勝監督(平4人卒=静岡聖光学院)に選手を辞めることを伝えた。悲願の日本一を目指したBIG BEARSは、甲子園ボウルで惜しくもその夢をかなえることができなかったが、サイドラインから見つめていた目黒は「来年またここに帰ってきてリベンジする」という思いが湧いてきたという。
チームを支えてきた4年生が引退すると、目黒は主将に立候補し就任する。主将を務めていた高校3年生のときに日本一を逃したことから、自分が引っ張っていくチームで日本一を達成したいという思いがあったからだ。また、目黒はかねてから「日本一になるために、組織として強くなることが必須である」と感じていた。下級生の頃からこのやり方はどうだろうと考えることがあったり、3年時には組織の新しいシステムを提案したりなど、組織の改善を目指して行動してきた。「去年までの自分たちを超える」という意識は、『凌駕』というチームスローガンにも表れている。
サイドラインから試合を見つめる目黒 【早稲田スポーツ新聞会】
目黒はBIG BEARSでの4年間を「ただひたすら怪我に悩まされた4年間だった。約14年のフットボール生活の中で一番しんどかった」と振り返った。選手としては満足のいく4年間ではなかったかもしれないが、1年間主将として組織改革を行いチームを引っ張ってきたその確かな軌跡は、後輩たちに受け継がれていくだろう。
- 前へ
- 1
- 次へ
1/1ページ