港東ムースを強いチームに育て上げた野村克也 後継監督問題を残してヤクルト監督就任へ
新チーム発足、田中洋平キャプテン誕生
個々の選手たちは急成長を遂げていたものの、チーム力はなかなか上がらなかった。
春の大会、夏の大会でも結果を残すことはできず、創設初年度で実現した全国大会出場もならなかった。
前年にチームが分裂して港東ムースは誕生したが、すでに旧チームで1年間プレーしていた2年生部員は環境を変えることに抵抗を感じたためなのか、港東ムースへの移籍者が少なく、目黒東シニアに残る者も多かった。そのため、どうしても戦力的に手薄であることは否めなかった。
発足と同時にムースに入団し、「野村の教え」を間近で受け続けた新2年生、そして一から野村の下に集まった新1年生を中心に89年秋、「三代目」となる新チームが誕生した。
キャプテンに指名されたのは田中洋平だった。
「立候補したわけでもないし、選挙があったわけでもないし、どういう経緯でキャプテンになったのかは覚えていません。でも、2年生になった頃から野村監督にも沙知代オーナーにも、〝洋平がみんなをまとめろ〟とか、〝みんなを引っ張るのがお前の役割だ〟と何度も言われていたので、自分でも〝(キャプテンに)なるんだろうな〟という思いがあったのは事実ですね」
洋平とバッテリーを組んでいた藤森則夫が言う。
「彼はキャプテンシーというのか、みんなをまとめる力がすごくありました。野村監督はキャッチャーに厳しかったから、試合中も必ずすぐ近くに座らされて、みっちりとインサイドワークを教え込まれていました。だから、僕の中でも、〝洋平がキャプテンになるだろう〟という思いはあったし、みんながそう思っていたと思います」
同じく、チームメイトだった平井祐二も振り返る。
「2年生の頃から試合に出ていたのは洋平と匠ぐらいでしたし、彼は元々、チームの中心的存在でした。だから、自然の流れで洋平がキャプテンになったし、それについては誰も違和感はなかったと思いますよ」
キャプテンとして、そして扇の要として、洋平の果たすべき役割は大きくなった。
オーナーを務める沙知代夫人はそもそも厳しかったが、キャプテン就任後、さらにその厳しさを増した。洋平が振り返る。
「とにかく大変だったのは、試合時の移動や、グラウンドでの整列でした。元々、オーナーはあいさつとか礼儀に厳しかったんですけど、キャプテンになってからはいつも、〝お前がしっかりしないからだ!〟と怒鳴られていました。整列の仕方、歩き方、いろいろ注意ばかり受けていました」
少しでも礼儀作法がなっていなければ、容赦なく罵声が飛んだ。ときにはゴツい指輪をはめた手で拳骨を喰らうこともあった。そのたびに洋平は歯を食いしばって耐えていた。
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