高津臣吾「明るく楽しく、強いチームをつくるために僕が考えてきたこと」

「信頼」と「我慢」のマネジメント――高津監督が絶不調でも大黒柱・青木宣親を代えなかった理由

高津臣吾

絶不調の青木宣親を代えない理由

 コロナ禍によって、ベテランの青木宣親が、1月の自主トレ期間中、そして開幕直後の4月と、二度も隔離生活を余儀なくされた。その影響もあって、青木はなかなか調子が戻らずに苦しんでいた。

 せっかく万全のコンディションを整えたにもかかわらず、しかも身体は万全であるにもかかわらず、シーズン中に離脱しなければならなかったことは、いくらベテランであっても本当に大変なことだったと思う。

 その結果、彼本来の実力を発揮できない時期が続いた。

 しかし、僕は決して彼をスタメンから外そうとは思わなかった。

 これが、若い選手だったり、チームの中心ではない選手だったりしたら、間違いなく代えていただろう。けれども、青木だから、チームリーダーだから、「打てない」という理由で外すことはない。

 別に我慢しているわけではない。

 彼がこれまで経験してきたこと、背負っているものを考えたら、厳しい言い方になるけれど、彼は全てを背負って出続けなければいけないからだ。たとえ打てなくても、ベンチの中で声を出し、雰囲気を盛り上げるのが彼の役目なのだ。なかなか成績が出ないと「みんなに申し訳ないな」という思いになるのは当然のことだ。それでも、青木は試合に出なければいけない数少ない選手の1人なのだ。

 実際に2021年スワローズのベンチの明るい雰囲気は青木が生み出してくれたものだ。ベテランながらも、率先して声を出し、喜怒哀楽を素直に表現してくれた。それによって、若手たちも素直に喜びも悔しさも爆発させることが可能になった。新外国人選手のオスナ、サンタナに対しては積極的に声を掛けて彼らの相談相手にもなっていた。本当に青木の役割は大きかった。

 ところが、名実ともにチームリーダーでありながら、試合では結果が出ない。それはかなり辛いことだったと思う。しかし、何度も言うが、彼はそれを背負っていかなければいけない選手である。

 もちろん、体調を見ながら休養を与えたり、コンディションに注意したりする必要はあるけれど、基本的には彼を外す気持ちは僕にはなかった。それは、前述したリリーフエースの石山も一緒で、配置転換はしたけれどファームに落とすつもりはなく、1軍の試合に出続ける中で本来の実力を取り戻すべく頑張ってほしかった。

 「チーム」という組織には必ず大黒柱が必要になる。

 野球においては、それはベテランが担うことが多い。若手選手に求めるものと青木のようなベテランに求める役割は当然異なる。無論、どちらも結果が求められる。

 しかし、青木の場合は結果だけではなく、チームの雰囲気作りや若手、外国人選手たちの相談相手などなど、それ以外にもさまざまな役割を求められる。こうした役割があるからこそ、僕は青木を代えるつもりはなかった。

 もちろん、青木の実力を信頼していたからだ。同時に「彼なら乗り越えられる」と信じていたからだった。

「信頼」と「我慢」を積み重ねて優勝を狙える位置に

 2021年ペナントレース。交流戦までの43試合を20勝16敗7分、貯金4、リーグ3位という状況で終え、交流戦に突入した。優勝を狙うには絶好の位置にいた。

 交流戦において、個人的に印象に残っている場面がある。

 6月10日、ZOZOマリンスタジアムで行われた、対ロッテ3回戦。ロッテ先発の佐々木朗希から、村上宗隆が18号ホームランを放った。

 試合には敗れたけれど、あの対戦はすごく面白かった。「やっぱり、佐々木投手はいいピッチャーだな」という思いと、「あの両者の対戦は野球の面白さが詰まった対戦だったな」という思いがある。

 結果的に村上が1発打ったから、余計にそう思うのかもしれないけれど、将来的に日本を代表するであろうピッチャーと、すでに日本を代表しつつあるバッターの対戦。昭和の時代から数々の名勝負はあったけれど、「佐々木対村上」「村上対佐々木」というのは、新時代の名勝負になる予感がした。

 本音を言えば、奥川と佐々木の投げ合いも見たかった。

 僕はその実現のためにロッテ戦に奥川を投げさせたのだが、相手のあることなので結局は実現しなかった。しかし、そう遠くない将来、両者の直接対決は実現するだろうし、その後も「令和の名勝負」となっていくことを期待している。

 2年ぶりに開催された交流戦は、全日程を終えて10勝8敗、12球団中の5位という成績に終わった。交流戦というのは日頃接することのない、多くのパ・リーグ選手を見ることができ、パ・リーグ監督の采配に触れることのできる期間なので、個人的にも楽しみにしていたし、実際にとても楽しかった。

 10勝8敗という結果に対しては、「もうちょっとできたのではないか?」という思い、一方で「よく頑張ったな」という思いが、それぞれあった。それは、「勝てる試合を落としてしまったな」とか、「この1点は防げる失点だったな」とか、「あそこで1点取っていればな」とか、いつものシーズンと一緒の思いだった。交流戦期間中でも、そういう試合は何試合かあった。

 6月16日に交流戦全日程を終えて61試合30勝24敗7分、勝率は.556で巨人と同率2位。首位の阪神とのゲーム差は7となっていた。

 首位との差はまだ開いていたけれど、後半戦の戦い次第ではもちろん逆転可能だ。7月28日からは東京オリンピック・侍ジャパンの激闘も控えていた。この時点では開催されるのかどうかは、まだ確定していなかった。

 新型コロナ、そしてオリンピック。

 従来とはまったく異なる戦い方を余儀なくされる覚悟はできていた。どんな事態にも対応できるよう、僕らは冷静に粛々と対応していくだけだ。

 勝負の夏が訪れようとしていた――

「明るく楽しく、強いチームをつくるために僕が考えてきたこと」

【写真提供:株式会社アルファポリス】

2021年、東京ヤクルトスワローズ髙津臣吾監督は前年最下位だったチームをセ・リーグ優勝、さらに20年ぶりの日本一へと導いた。若手選手が次々と台頭し、主力・ベテランが思う存分力を発揮するそのチーム力は、スワローズの新黄金時代の到来すら予感させる。全ての選手が明るく楽しく野球を楽しみ、かつ勝負にも負けない。髙津監督はこの理想のチームをどのようにつくり上げたのか――

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著者プロフィール

1968年広島県生まれ。広島工業高校卒業後、亜細亜大学に進学。90年ドラフト3位でスワローズに入団。93年ストッパーに転向し、20セーブを挙げチームの日本一に貢献。その後、4度の最優秀救援投手に輝く。2004年シカゴ・ホワイトソックスへ移籍、クローザーを務める。開幕から24試合連続無失点を続け、「ミスターゼロ」のニックネームでファンを熱狂させた。日本プロ野球、メジャーリーグ、韓国プロ野球、台湾プロ野球を経験した初の日本人選手。14年スワローズ一軍投手コーチに就任。15年セ・リーグ優勝。17年に2軍監督に就任、2020年より東京ヤクルトスワローズ監督。

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