日本のヨーロッパ挑戦のパイオニアが今日70歳の誕生日【1.FCケルン】

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奥寺康彦:ヨーロッパのリーグに初めて挑戦した偉大な選手の功績と誕生日を祝福

 今や日本人選手がヨーロッパのリーグに挑戦することは珍しい話ではなくなった。日本国内で活躍した有望株は日本を飛び出し世界中の猛者が集まるレベルの高いリーグに移籍することが最近の日本サッカーのトレンドとなりつつある。

 ブンデスリーガでは、過去に一時代を築いたドルトムントの香川真司や今でもフランクフルトの主力として活躍を続ける長谷部誠などの活躍もあり、日本人選手の価値はドイツ国内では多くのファンに認められているものとなっている。

 日本人サッカー選手のヨーロッパ挑戦のパイオニアといえば、読者のみなさんは誰を思い浮かべるだろうか。実は香川や長谷部が活躍する遥か前に、一人の日本人選手が当時最高峰のリーグであったブンデス1部に挑戦し、今でもレジェンドとして讃えられていることを知っている若い世代の人はどれほどいるだろうか。

 男の名前は奥寺康彦。まだ日本人サッカー選手がヨーロッパに移籍してプレーすることが一般的ではなかった時代、ドイツで9シーズンで通算234試合出場26得点を記録した紛れもないレジェンドである。得点は14年に岡崎慎司に、出場記録は17年に長谷部誠に抜かれるまで、日本人の最多記録だった。

1.FCケルンでプレーする奥寺(写真右から2番目の選手) 【©1FCKoeln】

 奥寺は1977年に1.FCケルンの練習に参加し、そこで当時のケルンの監督であったヘネス・バイスバイラーから才能を見出され、彼の強い意思で入団のオファーをもらったそうだ。当時の奥寺は言語の壁の懸念事項を気にしてそのオファーを保留としていたが、周りの後押しもあって入団を決意したと言う。

 言葉が全く通じない環境に身をおいてプロサッカー選手として活動するだけでも大変なことであることは想像に難くないが、奥寺はその上でさらに第一線のチームの主力として活躍していたことは最も評価されるべき点ではないだろうか。

 もちろん最初からフィットしたわけではなかった。慣れない異国の地でチームとのコミュニケーションはもちろん、普通の生活に溶け込むのも苦労するはずである。それでも奥寺はシーズン中盤に行われたドイツカップ準々決勝、シュバルツバイス・エッセン戦で初ゴールを含む2ゴール2アシストの活躍をすると、その後は水を得た魚のごとくチームの主力として活躍する。

 そして、結果的にバイスバイラー監督の下で数々の活躍をみせ、1977-78シーズンのリーグ優勝とドイツカップ優勝の二冠に貢献したのである。

リーグとカップ戦のトロフィーとシャーレを掲げる奥寺 【©1FCKoeln】

 言葉の語弊を恐れずに言うのであれば、今の日本人選手のヨーロッパ移籍は奥寺が何もないゼロの状態から切り開いた道を舗装した進路である。今日はそんな奥寺康彦の記念すべき70歳の誕生日である。今日という一日は、ぜひヨーロッパサッカーが好きな日本のファンはぜひ奥寺康彦に敬意を表してもらいたいと思う。

 ここまでの話を聞けば、奥寺が日本のレジェンドであることは疑いようがないのではないだろうか。この素晴らしい日本サッカーのパイオニアの偉大な功績を讃えるとともに、今日は彼の誕生日を盛大な感謝の意で祝福したい。
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著者プロフィール

1.FCケルンは1948年に設立された、ドイツ西部の大都市ケルンに本拠地を置くサッカークラブで、ブンデスリーガに所属しています。1963年に発足したドイツ・ブンデスリーガの初代王者であり、日本人海外移籍の先駆者である奥寺康彦が所属していた頃には2度目のリーグ優勝を成し遂げました。また近年では、槙野智章や鄭大世、大迫勇也も所属していました。

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