高木美帆の「オールラウンダー」は、日本女子スピードスケート界の原点 北京五輪
【1992年アルベールビル大会・女子スピードスケート1500m銅メダルの橋本聖子(写真:フォート・キシモト)】
本文:佐野 慎輔(笹川スポーツ財団 理事/尚美学園大学 教授)
オールラウンダーの先駆け・高見沢初枝
1960年スコーバレー大会・女子スピードスケートの高見沢初枝 【写真:フォート・キシモト】
高見沢は期待に応えるように500mと1000mで5位、1500mは途中転倒に終わったが、3000mは4位。初出場ながら4種目中3種目で入賞を果たした。いうまでもなく競技を問わず、これが日本の女子では冬季オリンピック初入賞であった。
翌年、高見沢は現役を引退、さらに1962年には同じスコーバレー大会代表の長久保文雄と結婚した。当時は結婚すれば女性は家庭に入るという風潮にあった。ところが日本スケート連盟は長久保初枝に現役復帰を要請した。選手層の薄さが要因だろう。女子体操の小野清子が結婚、出産を終えて現役復活したことも念頭にあったのかもしれない。この大変な申し出を受け入れ、長久保は主将として臨む夫の文雄とともに1964年インスブルック大会の氷上に立つことになった。
大会出場時に分かった驚くべき事実
そして4種目に出場し、なんと3000mでは6位入賞を果たした。1000mでは転倒、あわやという危機もあったという。困難を乗り越え、文雄と抱擁して無事を喜んだ。そして8カ月後、長久保は長女を出産した。
いつの時代も、女性アスリートは競技に打ち込む以外の困難を背負わされる。長久保初枝の時代から、悩みは今も消えてはいない。家庭を持ち、母ともなる選手たちをいかに支えていくのか。日本はいまだ、女子選手をめぐる環境整備が課題なのである。
スピードスケートの申し子・橋本聖子
1964年10月生まれ。アジアで初めて灯った東京オリンピックの聖火にちなみ、「聖子」と命名された話はあまりにも有名だ。スピードスケートで4大会、自転車で夏3大会出場。関ナツエと並んで日本人初の冬・夏出場の「オリンピックの申し子」である。そして昨年夏、東京2020大会組織委員会会長として新型コロナウイルス感染下、難題が相次いだ大会を大過なく終えて、参加した国・地域からも称賛された事は特筆に値しよう。
橋本のオリンピック初出場は1984年サラエボ大会。以来、1994年リレハンメル大会まで4大会連続出場を果たし、1988年カルガリーでは500mと1000mで5位に入り、1500mと5000mは6位、3000mは7位入賞。出場した5種目すべて日本新記録をマークして入賞という快挙だった。
しかし、メダルには届かなかった。1992年アルベールビルも大会前に体調を崩し、調子が上がらないまま本番に臨んだ。3000mは12位、続く500mも12位に終わった。メダルの壁は高い、と報道陣の間にもあきらめにも似た空気が支配した。
ただ橋本は自分を信じていた。黙々とトレーニングを続けてきたことが心を支えた。迎えた3種目の1500m。スタート直後から小さい身体をフルに使い、精密機械のようにラップを刻むが、体力は限界。ゴールした後、力尽きたようにあおむけに倒れた。2分6秒88。平凡な記録だった。しかし、その記録は最後まで3位をキープ、悲願の銅メダルを手にした。橋本は表彰式の後、こんな風に言った。
「これまで長いことやってきたのですから、神さまがかわいそうに思ってメダルをくれたのでしょう」
そんな橋本の銅メダルから、女子スピードスケート初の金メダルが生まれるまで26年の時が流れた。2018年平昌大会、500mの小平奈緒である。
そして、長久保(高見沢)に始まる短距離から長距離まで、オールラウンダーへのこだわりは橋本から、いま、北京大会の高木美帆に引き継がれている。
※本記事は、2022年2月に笹川スポーツ財団ホームページに掲載されたものです。
- 前へ
- 1
- 次へ
1/1ページ