【浦和レッズスペシャルインタビュー】個人昇格から日本の頂点、そしてアジアへ。浦和レッズの未来を担う平野佑一、小泉佳穂、明本考浩のタイトルへの決意

浦和レッドダイヤモンズ
チーム・協会

【©URAWA REDS】

2021シーズン、リカルド ロドリゲス監督が就任した浦和レッズは、陣容を大きく変えた。

12日に埼玉スタジアムで行われた天皇杯 準決勝 セレッソ大阪戦。2-0で勝利し、決勝進出を決めた試合のスタートをピッチで迎えた11人のうちで6人、交代出場した5人のうち3人が今季加入した選手たちだった。

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その中でも、3人の選手はJ2リーグのクラブから加入し、レッズが初めてのJ1クラブとなった選手だった。

C大阪戦では股抜きとキックフェイントで2人の相手を抜き去り、GKの逆を突くスーパーゴールで勝負を決定付けた小泉佳穂。圧倒的な運動量とスプリントで攻守に渡って獅子奮迅の活躍を見せている明本考浩。シーズン途中に加入し、テンポのいいショートパスや鋭い縦パスで攻撃をビルドアップする平野佑一。

J2時代の小泉、平野、明本 【©J.LEAGUE】

3年計画の2年目、AFCチャンピオンズリーグ出場権獲得を目指すチームにおいて、25歳以下と年齢が若く、実績を不安視する声がなかったわけではなかったが、彼らは浦和レッズで、初めてのJ1リーグで目覚ましい活躍を見せた。

そして19日、天皇杯 決勝 大分トリニータ戦でタイトルと来季のAFCチャンピオンズリーグ出場権を懸けた試合に臨む。

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「それは偶然ではないと思います」

小泉佳穂は真っすぐ前を見たまなざしと同じほど、語気に力を込めた。

絶対的な自信があったわけではない。他人を気にしている余裕がなかったことも含め、2人の活躍を予感していたわけでもない。

それでも小泉は、昨季までJ1リーグの経験がなかった選手たちの活躍には、はっきりとした理由があると確信している。

「一つは、J2リーグのレベルが確実に上がっていて、J2リーグの中にも巡り合わせによってはJ1リーグで通用する選手はたくさんいます」

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実力が申し分ない選手でも、J1リーグでのプレーや活躍が叶わない選手もいる。小泉は自分たちが活躍できた理由があると感じている。

「巡り合わせという点で言えば、リカルド監督のサッカーとマッチする特性を持っていた。特に僕と佑一君はそうだと思います。あと一つ大事だと思うのは、表現が難しいですが…」

行動よりも先に思考するタイプの小泉は、少しだけ間を取り、脳裏に浮かぶ言葉を探しながら続けた。

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「柔軟性があるというか、吸収力があるというか。外からの意見、監督だけではなくてコーチやチームメートの意見をしっかりと受け止めてやってみるというスタンスがあると思います。自分はJ2リーグから上がってきたという、ある意味、下手に出ているからということもあるかもしれません」

経験を重ねた選手と比べ、自分のキャンバスにはまだ余白が多い。技術や運動能力といった下地は必要だが、監督たちが塗ろうとする色に染まることができる。それにまた自分の色を重ね、さらに鮮やかな色を放つこともできる。

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ただ、余白だらけだった数年前、いや夢を追った少年時代にも、小泉は国内トップレベルでタイトルを争う試合でプレーしている自分の姿は「全く」想像していなかった。

大きな夢を描くタイプではなく、目の前のことに集中しなければ奮闘できないタイプだったからだ。ただ、環境がそうさせた面もある。

FC東京U-15むさしからFC東京U-18に昇格できなかった。前橋育英高校でも確固たるポジションを得られたわけではなく、プロにはなれなかった。青山学院大学ではほとんどがプロを志望しないサッカー部の中でモチベーションを失いかけた。FC琉球でのプロ1年目はJ2リーグでもなかなか試合に出られなかった。

「逆に先を見ていたら絶望していたから見られなかったんです。そのときそのときで先が見える状況ではありませんでした。だから自信を持っていた時代がありません」

それでも、レッズに加入することが決まると、タイトルを想像することができるようになった。

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シーズン前半戦は、初めてのJ1リーグでの戦いでがむしゃらにプレーした。一定の手応えを得るとさらなる成長を求め、自分ができないことにフォーカスした。その結果、落ち込み、調子を崩したこともあったが、得意なことに目を向けるなど精神的なバランスを取る術も学んだ。

そして今、タイトルをつかみたいと切に思う。

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「レッズに来るときに、自分がレッズにいる間に何もタイトルを獲れないというのは絶対に嫌だと思っていました。今もそう思っています。だから天皇杯は獲りたいです」

平野佑一も、日本最高峰の舞台でタイトルを獲る自分の姿をつい最近までは想像していなかった。

「自分でもまだびっくりしているような状態です。こんなにうまくいくと思っていませんでしたし、そもそも夏にレッズに来るとも思っていませんでした。分からないものですね」

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東京ヴェルディジュニアユース、國學院久我山高校、国士舘大学と名の知れた場所でプレーしてきたが、全国レベルのタイトルには縁がなかった。プロとしても半年前まではJ2リーグでプレーし、天皇杯も3回戦進出が最高だった。

「じゃあ、俺もJ1で成功しないじゃないですか」

平野は先輩の言葉に笑いながら、でも少しだけ無念さと不信感を込めてそう返した。その相手は、今季から水戸ホーリーホックでプレーしている中里崇宏だった。

中里崇宏 【©J.LEAGUE】

『95年度組』の同級生、汰木康也に「曲者」と評される平野は、「ちょっと変な人」である中里と気が合った。2人で話すことも多かったが、ある日、中里からこんなことを聞いた。

「最近は個人昇格で活躍する選手もいるけど、ボランチに限ってはJ2からJ1に移籍してうまくいっている選手はほとんどいない。チームとして昇格したボランチは別として、個人昇格のボランチがJ1でうまくいっている選手を俺は知らない」

どこまでを「個人昇格」と表現できるのか、何をもって「うまくいっている」と評価できるのか、人それぞれであり、異論もあるだろう。ただ、まだレッズに移籍することなど想像もしていなかった当時の平野は、兄のように慕う6歳上の先輩の言葉を聞き、頭を抱えた。

興梠にプレスをかける水戸時代の平野 【©URAWA REDS】

「ザトさん、俺はそんな話を聞きたくなかったですよ」

しかし、それからわずか数ヶ月で平野はレッズへ加入した。とにかく初戦が大事だと思っていたが、加入が決まってから初戦までわずかに8日。戦術の吸収も準備もままならなかった。だからなりふりを構えなかった。

そんなとき、ある選手が平野のおもいを包容してくれた。初めて会った際には「うわっ、有名人だ」と思った先輩だった。

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「最初から『試合中に槙野さんと言うのは面倒なので、マッキーでいいですか?』と聞いたんです。そうしたら槙野さんも『好きにやれよ』と言ってくれました。それで気分が乗りました。このチームは迎え入れてくれる雰囲気がありましたし、みんなに余裕があって、『自分の良さを出して好きなようにやれ』という方向に持っていってくれました」

そうして初戦ながら自分の持ち味を出し、まるで何試合も戦っているように周囲に指示を与えて連敗ストップに貢献した平野は、ほどなくして主力となった。彼が持つビルドアップ能力は、リカルド監督が作るチームの完成度を高めたとさえ言われる。

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「ザトさんとは今でも電話で話したりしますが、『お前がその一人目だったか』と言われました」

そう言って平野は笑った。


「勘違いしては成長が止まる」と思っている。だから普段は自分の好プレーの映像は見ない。SNSのタイムラインに流れてきた映像を見てしまえば「誰だよ、リツイートしたのは」と口を尖らせる。そうは思いながらも映像に釘付けになって悦に入るのだが、すぐに我に返って普段はうまくいかなかったプレー、課題であるポイントを映像で確認する。

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そんな思考の持ち主でも、中里の言葉はうれしかった。調子に乗らないように、少しだけ。そう思いながら、落ち込んだ自分を励ますときに思い出す。レッズで活躍する平野を奮い立たせる言葉、と言い換えてもいいのかもしれない。

『理論』タイプの2人とは対照的に、『直感』タイプの明本は、タイトルを獲得する自分の姿を思い描いていた。

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小学生から高校生まで栃木SCの育成組織で育ち、国士舘大学を経て、栃木SCに戻った明本。たとえば江坂 任は大学時代から圧倒的な力を持ちながら、J1リーグのクラブに発見されなかったが、明本は違った。J1リーグでプレーしようと思えばできたはずの環境だった。

それでも明本はJ1リーグのクラブからのオファーを断り、自らプロキャリアを栃木SCで始めることを選んだ。幼少期からお世話になったクラブでプレーすることは、具体的なオファーが来る前から決めていたことだった。

栃木時代の明本 【©J.LEAGUE】

悔いがなかったわけではない。一つ挙げるとすれば、もし1年目からJ1リーグのチームでプレーしていれば、当時のU-23日本代表に招集され、今年に延期された東京オリンピックに出られたかもしれない。そう考えると、表情はゆがむ。

「でも、今となっては間違っていなかったと思います。充実しているので後悔はありません」

いつか何かが起きると思っていた。たとえば将来のことを思えば、「いつかケガをするかもしれないし、どうなるかは分からない」と慎重な言葉を選ぶが、根拠のない自信もあった。プロ1年目を栃木で過ごし、自分を信じたからこそ、2年目のレッズからのオファーがあった。ワクワクしながら新指揮官が率いるチームに飛び込んでみると、さまざまな役割を与えられた。

「ポジションはどこ?」と冗談めかして聞けば、「自分でも分かりません」と笑う。

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サイドハーフで今季をスタートさせ、シーズン後半戦にはサイドバックが主戦場になった。ワントップで先発出場したことさえある。

ただ、明本のポジションが分からないのは、複数のポジションをこなすからではない。そもそもリカルド監督のサッカーにおいて、ポジションはスタートの立ち位置にすぎず、フォーメーションの表記もあまり意味を持たないが、明本は目まぐるしくプレー位置を変える。

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サイドバックでプレーしても、攻撃ではサイドハーフやウイングの役割もこなし、時に最前線に飛び出す。その流れでチームがボールを失えば、前線から二度追い、三度追いと繰り返し、ボールを奪えば再び攻撃に転じ、相手にボールを運ばれた際にも気付けばディフェンスラインに戻っている。

そのプレーからは野生味さえ感じられるが、無鉄砲ではない。レッズで、リカルド監督のもとで鍛えられていることがある。

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「頭を使ってサッカーをすることです。ポジショニングはリカルド監督からもすごく言われていますし、今年1年で『ここにいたらここに動こう』ということを考えるようになりました。去年までは全く考えていなかったことです。それは自分にとって本当にプラスです」

三者三様ではあるが、それぞれがレッズで成長し、自信を手にした。そして、頂点まであと1つの場所までやってきた。

【©J.LEAGUE】

何より結果を欲している。そのおもいは共通している。

「このメンバーでタイトルが懸かった試合を戦うことは一生に一度です。まずはこのチーム全員でしっかりとタイトルを獲りたいです。僕は一番、闘う姿勢を前面に出さなければいけない選手ですので、ファン・サポーターの方々、パートナーの方々にそういう姿を見せたいと思っています」(明本)

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「今年は『ザ レッズ』と言われている先輩たちがいなくなってしまう年ですし、今年このメンバーで獲るタイトルと来年のメンバーで獲るタイトルは価値が全く違うと勝手に思っています。今年は絶対に獲りたいと思っています。本当に全てを捧げる、自分のためというよりはチームのためにプレーしたいですし、その気持ちをピッチで表現したいと思います」(平野)

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「結局は結果です。タイトルを獲ることより優先されることはありません。そこへの強い気持ちをチーム全員が出せれば勝てると思います。全ては勝利のために戦いたいと思います」(小泉)

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J2リーグから個人昇格してレッズの推力になった。そして日本の頂点に立ち、アジアの戦いへ向かう。今季の集大成を飾り、そして来季へつなげるため、チームメート、スタッフをはじめとした関係者、パートナー、そしてファン・サポーターとともに、国立競技場で渾身の力を尽くす。

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著者プロフィール

1950年に中日本重工サッカー部として創部。1964年に三菱重工業サッカー部、1990年に三菱自動車工業サッカー部と名称を変え、1991年にJリーグ正会員に。浦和レッドダイヤモンズの名前で、1993年に開幕したJリーグに参戦した。チーム名はダイヤモンドが持つ最高の輝き、固い結束力をイメージし、クラブカラーのレッドと組み合わせたもの。2001年5月にホームタウンが「さいたま市」となったが、それまでの「浦和市」の名称をそのまま使用している。エンブレムには県花のサクラソウ、県サッカー発祥の象徴である鳳翔閣、菱形があしらわれている。

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