「老婆が愛したもの」 2002年に中村俊輔を迎えた小さな街
2002年、日本のファンタジスタ中村俊輔がレッジーナに加入。2005年までプレーした 【写真:アフロ】
昔、南イタリアの小さな街に住んでいたことがある。
一本の目抜き通りと蒼い海以外には、これと言ってなにもない。人々は夕方になると海辺をそぞろ歩き、やがて道の終わりまでたどり着くと、波が満ち引くようにまたゆっくりと引き返した。
海沿いの一角には『チェーザレ』という地元で人気のジェラート屋がある。通りから中をのぞくと、柔らかなジェラートがパレットの上の絵の具みたいに種々の色彩を放っていた。甘い匂いを漂わせながら海辺を歩く人々の手には、必ずこの店のジェラートがあった。海峡の向こうにシチリア島の灯りがきらきらと輝いて見えた。
2002年の夏、この街、レッジョ・ディ・カラブリアにひとりの日本人がやってきた。レッジーナに加入した中村俊輔だ。ほんの少し前まで日本という極東の島国でサッカーが行われているということさえ彼らは知らなかったはずだが、南の人間は陽気でおおらかだ、沸くときには何も分からなくとも、とにかく大いに盛り上がる。やれ「東洋のバッジョがやってきた」、やれ「日出ずる国のファンタジスタ」などと騒ぎたて、中村はあっという間に街の人気ものになった。
日本人は誰であろうと歓迎された。当時住んでいた古いアパートの隣には小さな八百屋があって、そこで働く店員たちもレッジーナの熱狂的なファンだった。何かを買いに行くたびに「ナカ!」と声をかけられ、日本人は珍しかったからか、いつもレモンやイタリアンパセリをおまけしてくれた。南イタリアの太陽をたっぷりと浴びた採りたての野菜はびっくりするほど味が濃かった。袋いっぱいの真っ赤なトマトとフェンネルを1ユーロくらいで買って、搾りたてのオリーブオイルと塩をふるだけで、それは最高の昼食になる。しゃきしゃきとした野菜に、シチリア産のビール、メッシーナがよく合った。
なごやかな南の田舎という印象の街には影もあった。カラブリア州はマフィアの土地だ。「ンドランゲタ」と呼ばれる、イタリアで最も恐れられるマフィアの存在を、時々肌で感じることがあった。中村が住んでいた家の近くで銃撃事件があった。ンドランゲタにみかじめ料を払っていないという理由で深夜に店が爆破された。マフィアの爆破事件というだけで重大ニュースになりそうなものだけれど、誰もがこの種の出来事には慣れていて、翌朝には爆破現場を横目に「あらあら、あの人たち払ってなかったんだねえ……」とつぶやきながらさっさと通り過ぎていく人々の姿を目にすることになる。
日本人記者団がマフィアの夏祭りに招待されたこともあった。ある日の夕暮れ、黒塗りのメルセデス・ベンツが3台やってきて、僕らを乗せて猛スピードで山の中へと向かった。暗い山道を走るドイツ車に揺られていたそのときほど絶望を感じたことはない。しかし山間の村に到着すると、カラブリア州を日本に広めてくれたということで、なぜか強面の人々の前で表彰された。一般人がマフィアの危害にあったというのはほとんど聞いたことがない。そういえば、レッジーナの会長の顔もマフィアそのものだった。
ノンナ・マリア(マリア婆さん)と出会ったのはそんなある日のことだった。
彼女が生まれたのは第一次世界大戦の直後だ。戦争が終わり、誰もがほっと胸を撫でおろしていたら、またすぐに別の戦争が始まった。
「若い頃は、あんまり良い思い出はないわな」
中世の魔女のようなしゃがれ声で、いつか婆さんは話してくれた。
人生の喜びと出会ったのは、戦争が(今度こそ)終わってからだ。彼女は地元のレッジーナを応援するようになった。チームが4部にいた頃からホームだけでなくアウェーの試合まで駆けつけた。
全身をクラブカラーのえんじ色で彩った彼女は街の人気者だった。ノンナをみかけると、誰もが声をかけた。
「婆さん、今日は勝てるかな」
「ああ勝つとも。2-0じゃ」
レッジーナは南の弱小クラブだったから、もちろん負ける試合のほうが多かった。それでも彼女は、ユベントスの来襲にも、ACミランの慈悲なき猛攻にも、少しもその信念を曲げることなく、我がクラブの勝利を予想していた。
ささやかな手助けもした。スタジアムに着くと、くたびれた鞄の中から塩を取り出しピッチにふりまいた。「清めるんじゃ」と言って芝に塩をまく彼女の後ろ姿は本当に魔女みたいだった。
主審が不利な判定をすると、席から飛び出し、スタンドの階段を駆け下りること矢のごとく、ピッチ際の仕切りガラスを叩いては罵声を浴びせた。その動きはレッジーナの頼りない左サイドバックよりも俊敏だったと思う。