早熟の天才・山田隆裕が輝いた時代 “史上最強”清水商から稼げるJリーグへ
「人生の早い時期に運を全部使っちゃった」
Jリーグ初期、山田は横浜Mの快速アタッカーとして活躍。だが、スピードを武器とするプレースタイルからか、現役は長く続かなかった 【写真:山田真市/アフロ】
「マリノスでチャンピオンシップに勝って優勝(95年)はありましたが、結局、僕は早熟だったんです。だから、人生の早い時期に運を全部使っちゃったというか(苦笑)。若い頃は縦に勝負することばかりを教えられましたが、スピードやパワーで勝負する選手は自分より速かったり、パワーがあったりする選手が出てくると、どうにもならないんです。プレースタイルを考えれば、もとから選手寿命が長くないのは分かっていました。
ただ、例えばかつての木村和司さん(元日本代表、横浜M)のように早い段階でウイングから中盤にポジションを変えたいと思っても、『お前にはそんなこと期待してない』ってそれが許される環境でもなかったですから。最後のベガルタでは中盤でプレーしましたが、結局は限界だったんです。長持ちする選手って、僕が一緒にプレーしたラモン・ディアス(元アルゼンチン代表、横浜M)もそうですが、やっぱり速いとか強いじゃなく“うまい”選手なんですよ」
仙台での復帰は、日産、横浜M時代の恩師であった清水秀彦監督(当時)に誘われてのことだったが、そこに若い頃のドリブルで縦に行く山田の姿はなかった。それでも、相手の急所を突くパサーにスタイルを変えた元スピードスターは、ベテランらしい気の利いたプレーで、たびたびチームの決定機を演出。結果、仙台を東北勢初のJ1昇格に導いたことでやりきった、とピッチを去った。
貧しい幼少期、一番稼げる仕事がサッカー
引退後は実業家の道へ。メロンパンの移動販売が好調でメディアに取り上げられることもあったが…… 【栗原正夫】
「いまでこそ笑い話ですが、僕は子どもの頃、『一杯のかけそば』を地で行くような生活をしていたので、将来お金で苦労したくないという思いがあったんです。だから、引退してからも仕事を続ける必要があった。プロサッカー選手になったのも、当時はそれが僕にとって一番稼げる道だったからです。もしほかにもっと稼げる仕事があれば、僕はそっちをやっていたと思う。ただ、実際にやってみると、問題が多かったのも事実。最後は裁判という形になりましたが、元Jリーガーで証言台に立った人って、僕以外にいるんですかね? そんなことも含めて、いまはすべてが経験だったと思っています」(敬称略)
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1972年4月29日、大阪府高槻市出身。清水市立商業高校卒業後、91年日産自動車(現横浜 F・マリノス)へ入団し、95年Jリーグ優勝を経験。その後、京都パープルサンガ、ヴェルディ川崎(現東京V)でプレーし、一時引退するも2000年にベガルタ仙台で復帰。同チームをJ1昇格へと導き03年7月に正式に引退。ポジションはFW、MF。J1通算224試合出場20得点、J2通算47試合出場3得点。日本代表として国際Aマッチ1試合に出場。引退後は実業家として活躍し、19年12月に知人とともにYouTubeチャンネル『たかちゃん がわちゃん』を立ち上げた。