サンフレッチェ広島・野津田岳人は、幼少期から自らの意思で決断してきた

原田大輔

自立を促すチームで培った「考える力」

野津田の両親は、子どものときから考えに考えて出した結論を、いつも尊重してくれたという 【西田泰輔】

 幼いころから自立させていたことに、こちらが驚くと、典子さんは、それがチームの方針でもあったと教えてくれた。

「シーガルのときから指導者の方には恵まれていて、コーチからは『基本的に子どもたちには自立させてください』と言われていたんです。だから、必要以上に家族が手助けをしないというか。子どものときって、どうしても両親がべったりになってしまう傾向がありますけど、シーガルでは、サッカーのプレーや内容についても、親が口を出さず、『その日あったことを常に聞いてあげてください』とも言われていました」

 野津田自身も、「両親からサッカーについて言われることはほとんどなかった」と話す。それはチームの方針でもあっただろうが、両親は節目、節目においても、野津田の意思と決断を尊重した。最初の分岐点は小学6年生のとき。典子さんは言う。

「中学生になったら、サンフレッチェのジュニアユースに行きたいということは前々から言っていたんですよね。だから、本人の気持ちとしてはセレクションを受けて、サンフレッチェのジュニアユースに入りたい。でも、シーガルでプレーしてきた同級生や上級生たちとも一緒にやりたいという思いもある。特に仲の良かったひとつ年上の子からは、『僕の貯金を全部あげるけえ、お願いじゃけん、シーガルで一緒にプレーして』なんて言われてね(笑)。そこまで引き留めてもらって、ガクとしても後ろ髪を引かれる思いはあったと思います」

 野津田を引き留めたその先輩とは、後に試合を実況するアナウンサーと選手として、スタジアムで共演することになるのだから、不思議な縁でもある。野津田も言う。

「仲の良かった先輩がシーガルのジュニアユースに進んだので、迷いましたけど、やっぱりプロになるならサンフレッチェのジュニアユースに入った方が、よりレベルの高い環境でプレーすることができる。だから、両親にはサンフレッチェのジュニアユースに行きたいってお願いしました。両親がそれに反対するようなことはなく、自分が決めたことを応援してくれましたね」

 典子さんは、まるで時をさかのぼるかのように、詳細に思い出してくれた。

「決めるまでは、毎日のように、サンフレッチェに行こうとか、やっぱりシーガルに行こうとか。ころころと心境が変わり、悩んでいるように見えました。でも、忘れられないのが、初めてサンフレッチェの練習に行ったときのこと。帰ってきたら、『すごい楽しかったぁ。みんなうまいけえ、僕が思ったところにパスが出てくるんよ』と、うれしそうに話してくれたのを覚えてますね」

プロに近づくため中学2年で大きな決断

2013年5月、Jリーグ初ゴールをマーク。トップチーム昇格後、すぐさま主力として活躍した 【写真は共同】

 正義さんが親心を明かす。

「もちろん、親として、考えや思いは伝えましたけど、最終的な判断はとにかく本人にさせようと思ってきました。だから、節目、節目では、いつも本人に決断させてきましたね。その方が、本人もやらされたという気持ちもなくなる。やっぱり、後になって後悔してほしくなかったし、させたくなかったんです。自分で決断して、自分の進むべき道は、自分で決める。よく考えて決めたことであれば、何を選択しても、お父さんとお母さんはお前を応援するよと……」

 だから、中学2年生のときも野津田は、自分自身で決めた。当時、サンフレッチェ広島ユースを率いていた森山佳郎監督に声を掛けられたのである。野津田は言う。

「中2の終わりころですかね。ある大会のときに、ゴリさん(森山監督)に呼ばれて話をしたら、『中3からユースに来ないか』って誘ってもらったんです。その後、親と車で帰っているときに、そのことを話したら、『自分で考えて、思うようにしたらいい』というようなことを言ってくれて。その言葉を聞いて、すぐに決心がつきました。本当に両親は、常に僕の意思を……いつも僕の気持ちを尊重してくれましたね」

 明るい野津田も、さすがにしみじみと振り返る。こうして野津田は転校すると、中学3年生から三矢寮に住み、ユースで練習するようになった。さらに野津田が続ける。

「そのときくらいからですかね。本格的にプロになるというイメージを持ち始めたのは。ユースに昇格したら、よりプロに近づけるんじゃないかって思えたんです。最初はヤバかったですよ。身体能力も違えば、スピードについていくのも大変だった。でも、めちゃめちゃ楽しかったんですよね。ここでプレーしたら絶対にうまくなるって思えたから。どちらかと言えば、大変だったのはサッカーよりも生活の方。寮生活では、朝は点呼から始まり、四六時中、知らない人たちに囲まれて生活しなければならなかった。ましてや同い年の人もいない。転校したから、最初は学校にも、友達がいないじゃないですか。ちょっと嫌だなって思ったこともありましたけど、それも1週間くらいで慣れました(笑)」

 あまりにあっけらかんと言うものだから、適応力の高さに驚いた。一方、中学3年生にして寮生活を余儀なくされたことで、早々に親のありがたみに気がついたとも言う。

「親への感謝が芽生えましたよね。特に掃除、洗濯は大変でしたから。家にいれば、常に洗濯はしてもらえるし、掃除もしてもらえる。加えて母親は食事も作ってくれていたわけですからね。それも兄弟3人分。寮生活をしてみて、純粋にすごいなって思いましたよね」

 ユースで成長した野津田は、まだ高校3年生だった2012年、当時サンフレッチェ広島を率いていた森保一監督に抜てきされると、J1のピッチに立った。その後、正式にプロになると、親への感謝を形に示そうと、父には鞄を、母には財布をプレゼントしたという。

 幼いころから自立し、分岐点となる節目では自ら考え、決断し、行動してきた。両親は、そんな野津田の性格を「負けず嫌い」であり、「弱みを見せない」子どもだったと話してくれた。サッカーのことで悩んでいても、つまずいても、決して弱音を吐くことなく、自分自身で道を切り開いてきた。

 だからきっと、16年3月に生まれ育った広島を離れるときも、誰にも相談せず、決断したのであろう。

<後編に続く>

(企画構成:SCエディトリアル)

【西田泰輔】

野津田岳人(のつだ・がくと)
1994年6月6日生まれ。広島県広島市出身。サンフレッチェ広島所属。MF/背番号7。177センチ・72キロ。シーガルFCを経て、地元サンフレッチェ広島のジュニアユースに加入。その後、ユースに昇格すると、高円宮杯3連覇に貢献し、高校3年生のときにはJ1デビューを飾った。その後も着実にステップアップを重ねていたが、リオ五輪出場を目指していたこともあり、より多くの出場機会を求めて、2016年3月にアルビレックス新潟へ期限付き移籍。リオ五輪出場はかなわなかったが、その後、清水エスパルス、ベガルタ仙台で経験を積み、今シーズンよりサンフレッチェ広島に復帰した。

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4月19日(金)19:00キックオフ サンフレッチェ広島vs.FC東京

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著者プロフィール

1977年、東京都生まれ。『ワールドサッカーグラフィック』の編集長を務めた後、2008年に独立。編集プロダクション「SCエディトリアル」を立ち上げ、書籍・雑誌の編集・執筆を行っている。ぴあ刊行の『FOOTBALL PEOPLE』シリーズやTAC出版刊行の『ワールドカップ観戦ガイド完全版』などを監修。Jリーグの取材も精力的に行っており、各クラブのオフィシャルメディアをはじめ、さまざまな媒体に記事を寄稿している。

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