BI砲再会 平成最後のオールスターに思う 全日・宮原によぎる新日・棚橋の面影
日本プロレス界の二大巨頭がその後に与えた影響は計り知れない 【撮影:山内猛】
一方、猪木は43年、神奈川県横浜市に生まれ、13歳の時に家族と共にブラジルへ移住。現地で力道山にスカウトされ、60年に日プロに入門した。66年には東京プロレスを旗揚げするも3カ月で崩壊し、一旦は日プロに出戻ったが、72年3月に新日本プロレスを旗揚げした。98年4月4日、55歳の時に、東京ドームにてドン・フライを相手に引退試合を行い、当時の最高記録となる7万人を動員した。
“世界の巨人”馬場を象徴するワードは「赤いタイツ」「王道」「アポー」、そして「馬場さん」である。全盛期は2メートルの巨体から繰り出す十六文キックや脳天唐竹割りで絶大なインパクトを与え、85年に第一線を退いてからは、前座のコミカル路線に転向。バラエティー番組やCMにも多数出演する「お茶の間の人気者」でもあった。全国の会場の売店に座ってファンサービスを実施し、弟子たちに「理想の社長像は馬場さん」と言われるほど、経営者としても優れていた。
“燃える闘魂”猪木を象徴するワードは「赤いタオル」「ストロングスタイル」「元気ですかーっ!」、そして「スキャンダル」である。見た目も、動きも、フレーズも特徴的なため、モノマネする芸人が続出。絶大なるカリスマ性を誇る一方、「政治・女・カネ」などのスキャンダルまみれで、参議院議員を務める今なお「お騒がせ要員」である。
相互に影響を与えるカリスマの遺伝子
「鶴龍対決」は全国のプロレスファンをおおいに沸かせた 【撮影:山内猛】
90年代の新日本人気を支えた闘魂三銃士 【撮影:山内猛】
とはいえ、それぞれの「遺伝子」から派生した団体は両極端だ。新日本を解雇された前田日明が88年5月に旗揚げし、ニューウェーブを起こした「第2次UWF」は格闘技スタイルで、いわば猪木路線。一方、馬場の元付き人・大仁田厚が設立したFMW(89年10月)は過激なデスマッチと、真逆のベクトルである。