1961年に誕生、過去日本選手は3人 エンゼルスの歴史をひもとく
球団史に残る悲劇も…
1986年、ワールドシリーズ進出にあと1勝と迫りながら、ムーアが打たれて初進出を逃した(写真は1988年のもの) 【Getty Images】
84年にはシーズン最終戦でマイク・ウィットが完全試合を達成するも、惜しくも2位。続く85年も2位に終わるが、翌86年はルーキーのウォーリー・ジョイナーが22本塁打、100打点を挙げ、ウィットも自己最多の18勝でチームをけん引して、3度目の地区制覇。東地区王者のレッドソックスとのプレーオフでも、第4戦まで3勝1敗とリードする。
かつての5回戦制であれば、この時点でエンゼルスのワールドシリーズ進出が決まっていたところだが、前年からプレーオフは7回戦制に変更。王手をかけて臨んだ第5戦、1点リードの9回表2死一塁から悲劇が始まる──。
ここでマウンドに上がった抑えのドニー・ムーアが、「あと1球」から伏兵のデーブ・ヘンダーソンにまさかの逆転被弾。その裏、エンゼルスもしぶとく同点に追いつくが、イニングまたぎのムーアが11回表に今度はヘンダーソンの犠飛で決勝点を献上。続く6、7戦も落とし、エンゼルスはまたしてもワールドシリーズ進出を逃す結果となった。
ムーアはその後、88年のシーズン途中でエンゼルスを解雇されて引退。翌年には35歳で自ら命を絶つことになる。この一件は、78年にFAでエンゼルスに移籍しながら、そのシーズン終盤の銃撃事件で命を落としたライマン・ボストック(享年27歳)、2009年に自動車事故に巻き込まれて同じく現役中に他界するニック・エーデンハート(享年22歳)とともに、球団史に残る悲劇としてファンに記憶されている。
21世紀に入ると黄金期到来
松井秀喜は2010年にエンゼルスに在籍した 【写真:ロイター/アフロ】
ティム・サーモンが球団初の新人王に輝いた93年も5位に終わり、東中西の3地区制施行2年目の95年はマリナーズと同率首位でシーズンを終えながら、地区優勝を決めるワンゲームプレーオフで敗退。ウォルト・ディズニー社が経営権を握った97年に「アナハイム・エンゼルス」と改名してからも、オーナーとして名をとどめていたオートリー氏は、チームのワールドシリーズ制覇を夢見ながら、98年にこの世を去った。
長年の雌伏を経て、エンゼルスが黄金時代を築くのは、21世紀に入ってからだ。2000年に現在のマイク・ソーシア監督が就任すると、3年目の02年には打ではトロイ・グラウス(00年本塁打王)、ギャレット・アンダーソン、投では先発のジャロッド・ウォッシュバーン、抑えのトロイ・パーシバルらが柱となって、ワイルドカードで16年ぶりのポストシーズン進出。先発ジョン・ラッキー、中継ぎフランシスコ・ロドリゲスのルーキーコンビの働きもあってプレーオフを勝ち上がり、ワールドシリーズではバリー・ボンズ、新庄剛志らのいたジャイアンツとの「ワイルドカード対決」を4勝3敗で制して、球団創設42年目で悲願の“世界一”の座に就いた。
その後、03年に現在のアルトゥーロ・モレノオーナーが球団をディズニー社から買収すると、05年には「ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム」に改称。04年にFAで獲得したブラディミール・ゲレーロ(今年、野球殿堂入り)がア・リーグMVP、翌年にはバートロ・コロンがサイ・ヤング賞に輝き、08年にはロドリゲスがメジャー新記録のシーズン62セーブをマークするなど、00年代は5度の地区優勝を飾るが、いずれもプレーオフで敗退。14年には、ジャレッド・ウィーバーが自身2度目の最多勝を獲得し、チームも9度目の地区優勝を果たすも、ディビジョンシリーズで敗れた。16年には球団名を創立当時の「ロサンゼルス・エンゼルス」に戻し、現在に至っている。
なお、その歴史の中でこれまで長谷川滋利(1997〜2001年)、松井秀喜(10年)、高橋尚成(11〜12年)と3人の日本人選手が在籍したが、いずれもエンゼルスではポストシーズンとは縁がなかった。4年ぶりのポストシーズン、そして16年ぶりのワールドシリーズ進出に向け、大谷の二刀流はチームを後押しできるだろうか?