昨年引退の海老原「経験を還元できたら」 女性指導者のためのコーチングクリニック
1月7日に開催された「女性指導者のためのコーチングクリニック」では、5人の元トップアスリートによるトークセッションも行われた 【提供:日本陸上競技連盟】
日本の陸上界に新たな歴史をもたらした5人の元トップアスリートによるトークセッションでは、棒高跳前日本記録保持者(4m35)で2004年アテネ五輪出場の近藤高代氏、走幅跳日本記録保持者(6m86)で08年北京五輪出場の井村久美子氏(旧姓:池田)、やり投日本記録保持者(63m80)で12年ロンドン五輪・16年リオデジャネイロ五輪代表の海老原有希氏(スズキ浜松AC)、1991年東京世界選手権400mハードル出場の長谷川順子氏(ミズノ株式会社)、200m・400m元日本記録保持者(24秒00、53秒73)で82年アジア大会4冠の磯崎公美氏(ナイキジャパン)という豪華な顔触れがそろった。各氏は、陸上競技を始めたきっかけ、競技を続けていく上でのモチベーション、自身の競技観に影響を与えた人物や出来事、引退などを、それぞれに振り返るとともに、現在の仕事の話、女性の陸上競技への参加に対する思いを語り、受講者へ向けたエールを送りました。
取材・構成/児玉育美(JAAF メディアチーム)
陸上競技をスポーツメーカーの立場で支える
高校卒業後は、ナイキジャパンに入社して実業団選手として競技を続けたが、20歳前後の頃は、周囲からの期待を感じる中で頑張ろうとすると故障して走れずと、うまくかみ合わないときもあった。「陸上をやりたくない時期もあった」と当時を振り返り、その中で競技を続けていけたモチベーションは何だったのかとの問いに、「世界大会に出てみたいという思いがあった。(活躍できるように)もう一回頑張ろうという気持ちで取り組んだ」と答えた。
最終的には、ケガがきっかけとなり、28歳のときに引退。そのまま、ナイキジャパンに残って、スポーツマーケティング部で、今も陸上競技を担当している。自身のセカンドキャリアについて、「私が現役のころは、メーカーに今の自分のような立場で働く女性はいなかったので、(引退後に)やってみたいという思いもあった。ここまで続けてこられたのは、ナイキジャパンが居心地のよい所だったからということもあると思う」と述べ、陸上に関わる仕事を続ける喜びを、「サポートしている選手が活躍してくれること。もっと頑張ってサポートしていきたいという気持ちになれる」とコメント。また、全国都道府県女子駅伝などで女性が監督を務めたり、女性だけでスタッフを組んだりするチームができていることを例に挙げ、「五輪や世界選手権などでも、もっともっと派遣される女性の代表コーチが増えるようになれば……」と、女性指導者のさらなる活躍に期待を寄せた。
ソフトボール部だった中学生のころ、テレビで見たインターハイで、磯崎氏が100m、200m、400mで3冠を達成したことを知って驚き、「あの人みたいになりたいと思ったことがきっかけで、高校から陸上競技を始めた」と話したのは長谷川氏。高校では短距離に取り組み、日本女子体育大へ進んでからは、400mを中心としていたが、3年生のときに、当時のコーチの勧めがきっかけで400mハードルを始め、あっという間にトップハードラーとなった。
「『先生が勧めてくれるのだから、私には合っているんだろうな』と、前向きな意識で取り組んでいた」という長谷川氏だが、自身で「最初で最後の大失敗」と打ち明けたのが91年に東京で開催された世界選手権でのレース。「いつもうまくこなせるスタートから1台目の歩数が合わなかった。『よし、日本記録が出てもいいくらいの状態だ』という思いで挑んだその意気込みが、自分を空回りさせてしまった。今、思えば、それは自分の未熟さだったと思う」と、当時を振り返った。
引退後もミズノ株式会社の社員として、ミズノトラッククラブのマネジメント業務を担当し、現在に至っている。そうした陸上競技に関わる仕事をしてきた中で、一番勉強になっているとして長谷川氏が挙げたのは、選手と指導者との関わりの部分。「選手の所属先の人間として一歩引いた目で見ていると、その師弟関係から学ぶことはとても多い」と述べた。さらに、指導者だけでなく、陸上界に関わる女性をもっと増やしていくためには何が必要かという問いに対して、「男性と女性はもともと違うもの。女性だからこそできる役割もあると思う。まずは、女性である自分だからこそできることを、仕事の場面でも1つ1つ積み重ねていくことが大事ではないか。それが結果的に周囲の女性への理解を高め、さらに自身の能力を高めるきっかけになると思う」と答えた。