昨年引退の海老原「経験を還元できたら」 女性指導者のためのコーチングクリニック

日本陸上競技連盟

陸上競技を指導者の立場で支える

 午前の実技講習で棒高跳の講師を務めた近藤氏も、長谷川氏と同様に、大学時代に新たな種目に挑戦しことで、日本を代表する選手へと変ぼうを遂げたアスリート。陸上競技自体は中学生の頃からやっていたものの、「走幅跳をやっていたなんて、となりに井村さんがいる前では恥ずかしくて言えない(笑)。全国大会にも行ったことがない」というレベル。早稲田大1年時の秋、翌年から棒高跳が日本選手権実施種目になると知り、「『これなら日本一になれるかも』という勝手な思い込みと、経験したことのない『上に跳ぶ』ことに興味があった」ことがきっかけで棒高跳を始めたと言う。まだ女子用のポールが簡単に手に入らない時代。「最初に使ったのは、1学年上の男子の先輩が高校から借りてきてくれたポール。14フィート、130ポンドとすごく重くて、初心者が使えるポールではなかったが、それしかなかったので、1人でせっせと補強し、壁に向かって突っ込み動作とかをやった。あまりに背中が疲れて張りすぎて仰向けで寝られないという日が続いたけれど、すごく楽しかったので、(棒高跳に)のめり込んでいった」と、当時を振り返った。

 大学卒業後は、長谷川体育施設の所属で競技を続け、トップボウルターとして活躍したが、11年の日本選手権で「ケガ明けとはいえ跳べると思っていた高さが跳べなかった。会社に所属してやる以上、世界に出て戦える選手でないといけないと思っていたので」、その日の夜に引退を決断し、セカンドキャリアとして、「私の指導者が高校の教員で、指導を受けていた十何年間、選手との関係を見ていて面白さを感じていた」ことから高校指導者の道を選択。7年目となった今年度で2回目の卒業生を出す一方で、陸上部の顧問としても活躍している。「今は種目を問わず、勉強させてもらいながら必死にやっている。強豪校の多い近畿では、地区を突破してインターハイに行くことが大変で、そこを破って全国へ……というのが私自身の目標・夢にもなっている」と話した。

 指導に際しては、「楽しくやる、その延長上に結果が出るというのが、長く続けていける一番の秘訣。それを生徒に伝えることを心がけている」と述べ、受講者に「陸上が楽しかったと言えるような選手をたくさん育成してもらえれば」と訴える一方で、「棒高跳は特殊競技。指導についてお困りのことがあったら、いつでもご連絡を」と呼びかけた。

 また、女性指導者を取り巻く環境については、「私の周りでは、けっこう女性の指導者は多いが、私を含め結婚していない人が多い。指導があるからということだけが独身の理由ではないと思うが、やはり出産・結婚は1つの大きな壁ではないか」と述べ、「特に、子育ての部分では、もう少し国が支援を充実させてくれれば、女性の指導者はもっと増えていくと思う」と指摘しました。

 近藤氏とともに、午前の実技講習で走幅跳の講師を務めた井村氏は、陸上一家に生まれ、子どもの頃から、陸上競技と遊びがリンクする環境で育った。小学5年で全国的に注目されるようになり、中学1年で12歳世界最高記録となる5m97をマーク。中学3年時には走幅跳で6m19、100mジュニア・ハードルでも13秒78の中学記録をマークするなど数々の実績を残し、早くから「天才少女」として期待を一身に注がれる存在に。しかし、その後、思春期による身体の変化に起因する伸び悩みに見舞われました。

 当時の苦悩を、「それまで『楽しいから練習する、記録も伸びる』だったのが、高校1年生くらいから応援が重荷になった。また、記録が伸びないことで『ああ、大人は結果でしか振り向いてくれない』と実感する残酷な場面も経験した」と明かした井村氏が、競技を続ける支えとなり、自身の競技観に影響を及ぼしたと挙げたのが父とのエピソード。「当時、下宿生活をしていた私に、毎晩電話をかけてきて、『おまえは自信さえ取り戻せたら大丈夫』と言い続けてくれた。その時はうるさく感じていたが、日本記録(06年)を跳べた時に脳裏に浮かんだのは、その言葉だった」と述べたほか、「跳べなくなった時期に言われた心ない言葉を恨んでいたが、父から『人を恨んで、仕返ししても何も返ってこないよ』と常に言われていた。その経験が、今、指導者になって生きていて、どんなにいらついたりうまくいかなかったりしても、一度、自分でリセットして、『相手は今、どういう言葉が欲しいのか』と考えることができている」と話した。

 08年に北京五輪に出場した後に結婚して競技を継続。13年に第一線を退いてからは、夫とクラブチームを立ち上げ、指導者の道を歩んでいるが、「実は、競技をやめてからも、ずっと6mは跳べていて、自分の中では『引退した』という感覚はあまりなかった」と井村氏。昨年夏に出産したことで、「子どもに見せたいな。復帰してみようかな」という気持ちが芽生えつつあるとも打ち明けた。

 指導者としては、「トップ(選手)として、自分の経験を伝えればいいという感覚だったのが、幅広い年代を指導して、いろいろな人に出会ったり、メンタルトレーナーやカウンセリングの資格の勉強をしたりする中で、まずは技術より先に、いかに『その人に合ったコミュニケーションが取れるか』が大事ということに気づいた。それが自分の味わったうれしい経験や悲しい経験と結びつき、今、いろいろな引き出しを持てるようになっている」と振り返り、それは、毎日指導に当たることで、今も学び続けているという。「選手には、なるべく『考えて、実践して、振り返って、次をどうする』というサイクルで指導すること、そして『じっくり成長を見守っていく』ことをやってほしい。決して1つのマニュアルには当てはまらない。ぜひ、それぞれのオリジナルのカラーを出して頑張ってほしい」と、受講者にエールを送った。

現役を退き、新たな立場で陸上競技を支える

 海老原氏は、やり投で日本記録を4回更新し、五輪は2大会に連続出場、世界選手権は5大会連続で出場するとともに、11年テグ大会では、日本女子投てき史上初の決勝進出を果たす(11位)などの実績を残し、日本の女子陸上界を長くけん引してきた選手。昨シーズンで競技生活に区切りをつけたばかり。「まだやめて2カ月だが、運動しない日がこんなにもあったことがない。今の生活を楽しんでいる」と言う海老原氏は、小学校では野球に取り組み、中学はバスケットボール部に所属していた。その中学でやり投の適性を見抜いた陸上部の先生から「高校ではやり投を」と言われ続けたことがきっかけとなり、高校から陸上競技の世界へ。やり投自体の記録は、国士舘大へ進んでから大きく伸び始め、社会人になってから世界大会へ出場するレベルへと成長した。

「世界で戦う」にこだわって競技を続けて来られた大きな契機となった大会として挙げたのが09年ベルリン世界選手権。「スズキには、すでに井村さんや村上幸史さんといった先輩が世界で戦っていて、学生のころから『ああ、この人たちと一緒に世界大会に出たい』と思っていた。09年に初めて世界選手権に出場できたわけだが、いざ、出てみたら、自分とのレベルは雲泥の差で大きなショックを受けた。しかし、そのベルリン大会で、それまで何年も世界に跳ね返されていた村上さんが銅メダルを獲得。それを間近で見たことで、『もしかしたら私にもできるかもしれない。諦めずに世界で戦おう』と思うきっかけになった」と振り返った。

 競技を退くことを決めた背景として、狙うところで狙った結果が出せなくなっていたこと、長年抱えていたひざのケガが著しく悪化したことを挙げたが、「でも、やめるときは、周りから言われてではなく自分で決めたいと思っていたので、悔しさはあるけれど、後悔はない。私ができなかったことは、後輩たちに託したい」と話した。

 それまで明らかにしていなかった引退後の去就についても触れ、スズキ浜松アスリートクラブのチームスタッフとして働くこと、すでに1月1日付けで辞令も出ていること、翌日の1月8日が初出勤となることが海老原氏自身から報告。「ですので、今日が18年の初仕事(笑)。これからも皆さんと同じ陸上界にいる。コーチングやマネジメントのスタッフということになるので、今度はチームの選手のために私が支えていけるよう、気持ちも新たに取り組みたい」と力強い言葉を聞かせてくれた。

 また、これまでとは異なる立場で陸上競技に関わっていく上で、「選手の話や悩みを聞き、そこで自分の経験を還元できたらと思うが、そのためには表現の仕方が重要になってくる。まずは、自分の経験したことを、言葉に換えられるようにすることを、これから勉強していかなければ」と、今後の自身の課題も挙げ、「諦めずに取り組む選手をサポートしていけるよう頑張りたい。お互いに18年も頑張りましょう」と受講者に呼びかけ、大きな拍手を浴びた。

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