「ノアの聖地」ディファ有明の歴史に幕 記憶と記録に残る思い出を振り返る

高木裕美

「ノアの聖地」とも呼ばれた東京・ディファ有明が来年6月を持って閉鎖 【写真:SHUHEI YOKOTA】

 かつて「ノアの聖地」と呼ばれた東京・ディファ有明が、来年6月をもって閉鎖することが決定。数々の思い出や名勝負を生み出した会場の消滅に、ファンからは別れを惜しむ声が上がっている。

 ディファ有明は、ディスコやライブハウスが入ったイベント施設「MZA有明」として1988年7月にオープン。当時の「ウォーターフロントブーム」の先駆けとして、外国人タレントのライブやディスコ客で賑わい、80年代後半から90年代前半のバブル時代の象徴となったが、バブル崩壊による運営会社の倒産などがあり、2000年に格闘技アリーナとして改名・改装された。

「ノアの聖地」ながら、こけら落としは全日本

 ディファ有明の名を一躍プロレスファンに知らしめたのは、やはり、改装オープンの同年6月に新団体設立を発表したプロレスリング・ノアの存在だろう。ノアは老舗団体・全日本プロレスから大量離脱した故・三沢光晴さんら選手・スタッフが新たに旗揚げし、このディファ有明内に事務所・道場を構えた。6月の発足会見、8月5日&6日の旗揚げ戦も同所で開催されているが、実は、会場のこけら落としはノアではなく、皮肉にも全日本が同年7月1日に行っている。

 ノアは旗揚げ後も同所で定期的に興行を行い、若手主体の興行「プロレスリングSEM」なども実施。ノアだけではなく、他団体も使用しており、最近では、新日本プロレスが1.4東京ドーム大会の直前に行う「大プロレス祭り」の会場としても認知されていた。そのほか、パンクラスやZST、DEEPといった総合格闘技、キックボクシングやボクシングの格闘技団体も定期的に興行を開催。花道が常設されていることや、元ディスコであったことから、アイドルのイベントや映画・ドラマの撮影など、さまざまな用途で需要があった。

 会場の作り自体は東京・新木場1stRINGに似ており、ステージ側だけにひな壇が組まれ、選手は立体花道を歩いてリングイン。売店フロアの広さと、女子トイレの数の多さが特徴で、会場2階にはバルコニーもあるが、基本、立ち見は禁止となっている。

 会場の横にかつてのノア事務所&道場があり、00年の発足会見で選手たちの記念撮影が行われた階段を上り、ディファ事務所の横を抜けていくとノアの事務所、さらに1フロア上に道場があり、トレーニング機材やリングが設置されていた。

「プロレスの聖地」後楽園ホールは、東京都のど真ん中、JR総武線の水道橋駅から徒歩5分程度の好立地にあるが、ディファのある場所は、01年にりんかい線、06年にゆりかもめが開通するまでは「陸の孤島」であり、公共交通機関を利用して会場に行くには、都営バスなどを利用するしかなかった。当時の最寄り駅であった営団地下鉄有楽町線・豊洲駅からは徒歩約30分。また、会場のオープン当初は会場横にコンビニエンスストアもなく、ファンは会場名物のディファカレー(500円)で腹を満たすのが恒例となっていた。

 そんな昔の思い出も、もうじき過去のものとなってしまうかと思うと、淋しさが増すばかりである。

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著者プロフィール

静岡県沼津市出身。埼玉大学教養学部卒業後、新聞社に勤務し、プロレス&格闘技を担当。退社後、フリーライターとなる。スポーツナビではメジャーからインディー、デスマッチからお笑いまで幅広くプロレス団体を取材し、 年間で約100大会を観戦している 。最も深く影響を受けたのは、 1990年代の全日本プロレスの四天王プロレス。

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